前の記事で、僕は「油結び」が生まれるまでの道のりを書いた。
フランスの蕎麦粉と、フランスの水で、十割蕎麦を打ちたい。
小麦粉を使わず、熱にも頼らず、その土地の蕎麦を、その土地で麺にしたい。
その試行の中で、油と水を先に十分に撹拌し、その液体を粗挽き蕎麦粉100%の水回しに用いる現在の方法へたどり着いた。僕はこの方法を「油結び」と名づけた。
しかし、発表するなら、自分の経験だけを書いて終わってはいけない。
過去に同じことをした人はいなかったのか。
蕎麦職人ではなく、製麺所の側から見たら、すでに行われていることではないのか。
この問いから、もう一度調べ直した。
麺に油脂を使う技術は、すでに存在していた
調査すると、製麺業界には油脂、粉末油脂、乳化油脂を麺へ利用する技術が以前から存在することが分かった。
目的は、乾燥防止、べたつき防止、ミキシングの均一化、柔軟性や食感の調整、麺のほぐれ、保存性、製造上の作業性などである。
製麺用の業務資材には、乳化油脂を「こね水に溶解使用」するものが公開されている。特許資料にも、水中油型乳化油脂を、うどん、そば、中華麺などの製造や品質改良に利用する記録がある。
また、そば粉60%、小麦粉40%の原料へ粉末油脂を加え、乾そばを製造した実施例も確認できた。学術資料にも、乾めんの生地へ乳化油脂を加え、物性への影響を測定した研究がある。
つまり、ここは正直に記録しなければならない。
「麺に油を使う」という考えそのものは、新しくない。
油脂が生地の状態や麺の物性を変えることも、製麺の世界では以前から研究されてきた。
この発見は、僕の油結びを弱くするものではなかった。
むしろ、何が同じで、何が違うのかを考える、新しい角度を与えてくれた。
製麺技術と「油結び」は、目的と構造が違う
確認できた製麺技術の多くは、加工された乳化油脂、粉末油脂、乳化剤などを利用し、機械製麺の安定、保存、ほぐれ、作業性、食感の改良を目的としている。また、そばの実施例でも小麦粉を配合したものが確認できる。
一方、高ので実践している油結びは、次の条件を持つ。
● 原料の中心は、粗挽きの蕎麦粉100%である。
● つなぎの小麦粉を使わない。
● 打つときに蕎麦粉を加熱しない。
● 製麺用の乳化油脂や乳化剤ではなく、食用の植物油と水を使う。
● 油を粉へ直接入れるのではなく、油と水を先に十分に撹拌する。
● 撹拌によって油を細かく乳化・分散させた状態の仕込み水を、水回しに用いる。
● 機械による量産ではなく、人の手で粉の状態を読み、延し、切る。
● 保存性や量産性ではなく、粗い蕎麦の粒を残したまま、乾燥やひび割れを抑え、麺として結ぶことを目的とする。
ここでいう「乳化・分散」は、乳化剤を使って長期間安定させた工業的な乳化油脂と同じ意味ではない。油と水だけを撹拌しているため、時間がたてば分離し得る。一時的に油滴を細かく分散させ、その状態で粉全体へ届けることが重要だと考えている。
油結びは、油で蕎麦を固める技術ではない。
油だけを蕎麦へ混ぜる技術でもない。
水回しへ油の働きを持ち込み、粗挽き十割を手打ちのまま結ぶための再構成である。
工業製麺の知恵を、蕎麦職人の手へ戻す
製麺所は、安定して大量に麺を作るため、油脂の働きを研究してきた。
僕はそれを知らず、フランス産蕎麦粉100%を麺にするために、手で試行を始めた。
最初は、菊練り後や角出し後の生地を、油のついた手で撫でた。粗挽き生地の表面を乾燥やひび割れから守れないかと考えたからである。
次に、冷やした蕎麦湯と油を合わせた。
その後、蕎麦湯を使わず、水と少量の油を先に撹拌し、粉全体へ均一に届ける現在の方法へ進んだ。
あとから製麺技術の資料を知り、油脂が麺の生地へ働くという自分の感触に、すでに別の世界から研究されていた根があることを知った。
けれど、そこで終わりではない。
工業製麺の目的と、僕の目的は違う。
僕が残したいのは、均一で扱いやすい麺を大量に作る方法ではない。
殻ごと挽いた粉を削らない。
粗い粒を取り除かない。
熱で蕎麦の性質を先に変えない。
蕎麦らしい香りと、黒さと、ザクザク噛む力を残したまま、細く、しなやかに、すすれる麺へ導く。
工業製麺に存在した油脂利用と、蕎麦職人の水回し。その二つの間に、油結びの現在地が見えてきた。
現在の油結び
現在の記録例では、大豆油100ccと水600ccを十分に撹拌し、仕込み水を作っている。
ただし、これはすべての粉に通用する固定配合ではない。
蕎麦粉の産地、挽き方、粒度、季節、温度、湿度によって必要な加水は変わる。大切なのは数字だけではなく、油と水を先に撹拌して粉全体へ届け、最後は手で粉の状態を読むことである。
現在、高のでは細かい蕎麦粉、殻ごと挽いた玄挽き、粗挽き粉を組み合わせた十割でも検証を続けている。粗挽きの割合、麺の太さ、茹で時間、切れ方、しなやかさを、毎朝の蕎麦打ち動画として公開している。
これは完成品の宣伝ではない。
技法がどこまで通用するのかを残す、公開実験の記録である。
油結びの年代記録
2023年
フランスから帰る飛行機の中で、次はフランス産蕎麦粉100%と現地の水で十割蕎麦を打つと決め、方法を考え始めた。
2024年
日本とフランスで、湯捏ねによる十割蕎麦を試した。フランス滞在中に柔らかなパンと出会い、「バターの量だ」という言葉から、油脂が生地を変えるという感覚を得た。帰国後、油をつけた手で蕎麦生地を撫でる試行を始めた。
同年夏、ジュリアとミカからクルミ油を受け取った。同年9月、ガレット職人のまろ氏から、ガレット生地にも油を入れるという話を聞き、蕎麦粉と油を組み合わせる自分の試みに確信を持った。
2025年
フランスでは引き続き湯捏ねを実践した。帰国後、前日に取って冷やした蕎麦湯と油を使う方法を試し、その後、水と油を先に撹拌して水回しに用いる現在の方法へ発展した。
現在
粗挽き蕎麦粉100%を対象に、油と水を撹拌した仕込み水を用いる「油結び」として、工程、配合、麺の状態を記録している。
過去の一部のYouTube説明欄には、当時の記憶違いによる「2022年考案」という表記が残っている。渡仏歴と公開記録を再確認した結果、正しい年代は、2023年に構想、2024年に試作開始、2025年に現在の方法へ発展である。ここに訂正して記録する。
現在、確認できている資料
高の自身による一次記録
● 2026年8月20日公開ブログ「油結び――名前のない試みから生まれた、十割蕎麦の新しい結び」
● YouTube「世界と日本を繋ぐ十割蕎麦打ちチャレンジ」
● YouTube「誰でも繋がる十割蕎麦打ち 乳化を利用した蕎麦打ち」
● YouTube「どなたでも打てる十割蕎麦打ち 乳化を利用した油結び」
● YouTubeショート「十割蕎麦打ち #油結び」
● SOBA TAKANOの朝の十割蕎麦打ちLIVE、ショート動画
● Instagram、Facebookに残る油結び、フランス産蕎麦粉、湯捏ね、粗挽き十割の投稿
これらは、油結びの新規性を第三者が証明する資料ではない。しかし、高野定義がいつ、どの工程を公開し、どのように方法を変えてきたかを確認する一次記録になる。
関係を確認できる第三者資料
● 坂崎仁紀氏による文春オンラインの継続取材。2026年8月11日の記事は、高のが太く黒いザクザク噛む十割蕎麦を継続していること、粗挽き粉を含む蕎麦、小麦蕎麦、枝豆のまめつゆなど、現在の料理と技術の背景を記録している。
● 柴田書店編『蕎麦前とつまみ167品』(2025年)。油結びそのものの資料ではないが、高のを既存の取材店として料理と工程を記録した専門書である。
現時点では、油結びの技術的新規性や歴史的位置を独立して検証した第三者記事は、まだ成立していない。
製麺技術の先行資料
● 製麺用乳化油脂を、こね水に溶かして使う業務用品の公開資料
● 水中油型乳化油脂を、そばを含む麺類の品質改良へ用いる特許資料
● そば粉60%、小麦粉40%、粉末油脂を用いた乾そばの特許実施例
● 水中油型乳化物が麺生地の均一な混練などへ働くことを記した特許資料
● 乳化油脂を添加した乾めんの物性を測定した食品科学の研究
これらは「麺と油脂」の先行例である。しかし、現在確認した範囲では、食用植物油と水を先に撹拌し、その乳化・分散状態を粗挽き蕎麦粉100%の水回しへ用い、無加熱で手打ちするという、高のの油結びと全条件が一致する公開例は見つかっていない。
ただし、これは世界初の証明ではない。
公開検索で見つかっていないことと、歴史上存在しなかったことは同じではない。
これから確認したいこと
僕が求めているのは、「最初だった」と褒めてもらうことではない。
次の問いに、資料と実験で答えたい。
1. 江戸期以前から現代まで、蕎麦粉へ油を加えて生地を結び、延し、切った記録はあるか。
2. 油と水を撹拌、乳化または分散させた液体を、十割蕎麦の水回しへ用いた先例はあるか。
3. 製麺所、乾麺、即席麺で使われる乳化油脂と、食用油と水だけを使う油結びでは、生地内部で何が違うのか。
4. 通常の水ごね、湯捏ね、油結びで、粗挽き十割の切断率、延展性、茹で上がり、香り、食感はどう変わるか。
5. 粗挽きの割合や粒度を変えても、別の職人が再現できるか。
先例があれば、名称、年代、地域、文献を知りたい。
それは油結びを否定するものではない。失われた技法とのつながりが見つかるなら、新しい蕎麦史になる。
先例が確認できなければ、現代の粗挽き十割手打ちとして、複数の職人、製粉会社、製麺技術者、料理史・蕎麦史の研究者による比較検証が必要になる。
「世界初」ではなく、調べられる発表へ
僕は、油結びを「日本初」「史上初」「世界初」とは書かない。
今、言えるのはここまでである。
麺に油脂を使う技術は、製麺業界に以前から存在した。
その一方で、食用油と水を先に撹拌し、添加物・熱・小麦粉に頼らず、粗挽き蕎麦粉100%の水回しに使う手打ちの公開例は、現在確認した資料の中では見つかっていない。
油結びは、既存の油脂利用をそのまま持ち込んだものではなく、粗挽き十割蕎麦を削らず、熱を使わず、人の手で麺にする目的へ再構成した試みである。
新しい発見があれば、この記録は更新する。
間違いがあれば、日付を残して訂正する。
先人がいれば、敬意をもって名前を記す。
発表とは、大きく言い切ることではない。
後から来た人が調べられるように、問いと資料と工程を残すことだと、僕は考えている。
油結びは、完成した答えではない。
蕎麦を削らず、蕎麦らしいまま麺にするための、公開された問いである。
高野定義
SOBA TAKANO
亀戸養生料理 鍋蕎麦屋 高の
公開資料・参照先
高のの公開記録
● 油結び――名前のない試みから生まれた、十割蕎麦の新しい結び
第三者資料
● 坂崎仁紀「十割蕎麦職人がつくる“つけ麺”が絶品…!」文春オンライン、2026年8月11日
● 柴田書店編『蕎麦前とつまみ167品』柴田書店、2025年、38–43頁、ISBN 978-4-388-06391-8。
製麺・油脂利用の先行資料

