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  • 懐石ではない。護摩蕎麦に込めた「庶民の一膳」

    懐石ではない。護摩蕎麦に込めた「庶民の一膳」

    護摩蕎麦は、豪華な懐石料理から生まれたものではありません。

    かつて日本人の身体と暮らしを支えた、玄米、お新香、めざし、味噌汁。

    その「庶民の一膳」を、現代の蕎麦料理として表現した作品です。

    玄米、お新香、めざし、味噌汁。かつて日本人の身体と暮らしを支えた、庶民の一膳。高のは玄米の位置に「ザクザク噛む十割蕎麦」を置きました。鉄鍋に残った呉汁も、最後の玄米粥まで残さずいただく。護摩蕎麦に込めた、日本料理と命への感謝の話です。

  • 【蕎麦屋のラーメン|小麦蕎麦】手打ち失敗録 #001|30人前、腰を壊す。2026.08.18

    【蕎麦屋のラーメン|小麦蕎麦】手打ち失敗録 #001|30人前、腰を壊す。2026.08.18

    調子に乗りました。

    祝日の火曜日。

    いつもより、お客様が来てくださるかもしれない。

    それなら、30人前を全部打ち立てで用意してやろう。

    56歳。

    まだできると思いました。

    実際、30人前はできました。

    腰が壊れました。

    6月2日から、毎週火曜日

    小麦蕎麦を始めたのは、2026年6月2日です。

    十割蕎麦屋が作る「蕎麦屋のラーメン」。

    国産小麦100%。
    加水率55%。

    水を回し、踏み、延し、切る。

    製麺機ではなく、人の手で麺を打っています。

    6月に5回。
    7月に4回。
    8月11日の祝日までに2回。

    今回で11回目の火曜日でした。

    毎週、打ち立ての麺を用意してきました。

    誰かに頼まれたわけではありません。

    打ち立ての瑞々しさを食べていただきたい。

    自分なら、まだできる。

    そう思って続けてきました。

    身体に疲れが残っていることには、気づいていました。

    気づかないふりをしました。

    祝日だから、30人前

    8月11日は、火曜日の祝日でした。

    いつもより多くのお客様が来てくださるかもしれない。

    売り切れにしたくない。

    足りなかったと言いたくない。

    30人前くらい、手で打てる。

    できないと思われたくない。

    そんな意地がありました。

    朝3時に起きました。

    眠い。

    腰も少し重い。

    それでも、始めました。

    小麦粉5kg、水分2.75kg

    使った小麦粉は5kg。

    加水率55%ですから、水分は2.75kg。

    粉と水だけで、合計7.75kg。

    それを分けずに、一気に水回ししました。

    両手の指を広げ、水を小麦全体へ行き渡らせる。

    持ち上げる。

    落とす。

    また混ぜる。

    初めは軽かった粉が、水を抱え、少しずつ重い塊へ変わっていきます。

    腕が疲れる。

    肩が固くなる。

    腰が重くなる。

    それでも止めませんでした。

    ここまで始めたのだから、最後までやらなければ格好がつかない。

    誰も見ていない朝3時の厨房で、一人で格好をつけていました。

    小麦は、言うことを聞かない

    蕎麦と違い、小麦にはグルテンがあります。

    延しても戻る。

    押しても押し返してくる。

    こちらも負けたくない。

    麺棒へ体重をかける。

    飛び跳ねる。

    また戻る。

    また飛び跳ねる。

    延々と繰り返しました。

    この頃には、腰が痛くなっていました。

    でも、途中でやめる方が怖かった。

    30人前を用意できなかった自分を認めたくなかった。

    痛みより、見栄を選びました。

    56歳。

    自分の身体より、小麦に勝つことを選びました。

    水を回す。
    踏む。
    延す。
    切る。

    30人前、完成しました。

    やればできる。

    まだ俺は動ける。

    少し、嬉しかったです。

    麺はできた。自分が壊れた

    仕事が終わる頃には、腰が伸びなくなっていました。

    椅子から立ち上がれない。

    靴下を履くために屈めない。

    寝返りを打つたびに目が覚める。

    立つ時には、何かにつかまらなければならない。

    30人前の麺は、きれいにできました。

    作った本人が、きれいに壊れました。

    なぜ、5kgを一気に水回ししたのか。

    なぜ、30人前すべてを当日の打ち立てで用意しようとしたのか。

    なぜ、56歳の身体を、まだ大丈夫だと思ったのか。

    後悔しました。

    30人前を用意できたことより、次の火曜日に30人前を用意できなくなったことの方が、ずっと重く残りました。

    毎週続けたかったのに、自分の意地で止めかけました。

    オスギにも迷惑をかけました。

    情けない。

    麺は間に合った。
    人間が、間に合わなくなった。

    2026年8月18日は、20人前です

    翌週も、30人前を打つつもりでした。

    できません。

    腰が痛いからです。

    2026年8月18日の小麦蕎麦は、20人前とさせていただきます。

    前の週に30人前を打って格好をつけた人間が、次の週には10人前減らします。

    「やっぱり無理だったか」

    そう思われても仕方がありません。

    その通りです。

    無理でした。

    30人前の麺には勝ちました。

    自分の年齢には負けました。

    格好悪い。

    情けない。

    申し訳ありません。

    手打ち失敗録 #001

    30人前、腰を壊す。

  • フランス活動記⑧|言葉が通じないから、日本の風景を料理にした

    フランス活動記⑧|言葉が通じないから、日本の風景を料理にした

    二年目のマルセイユ

    2024年3月。
    僕とオスギは、再びフランス・マルセイユへ向かった。

    二度目だからといって、言葉が話せるようになったわけではない。

    料理の名前。
    食材。
    食べ方。
    その料理を作る理由。

    僕が大切にしてきた日本料理の考えを、フランス語で十分に説明することはできなかった。

    だから渡仏する前に、提供する料理を一枚ずつPOPにして、フランスへ提出した。

    言葉で伝えられないのなら、まず料理の姿を見てもらう。

    そして最後は、実際に食べてもらう。

    それが、僕にできる方法だった。

    ロバートで過ごす二週間

    この年は、マルセイユのレストラン「ロバート」の厨房に入り、約二週間料理を作った。

    日本から完成した料理を運び、そのまま再現するために来たのではない。

    フランスの食材。
    フランスの水。
    フランスの厨房。
    そして、目の前にいる人たち。

    そのすべてと向き合いながら、ここで新しく料理を成立させなければならなかった。

    オスギと二人、慣れない厨房で仕込みを続けた。

    言葉が通じないからこそ、曖昧な仕事はできない。

    一皿ずつ、手で答えを出していくしかなかった。

    フランスの蕎麦粉と水で打つ十割蕎麦

    僕がフランスで続けている挑戦には、一つの決まりがある。

    フランス産の蕎麦粉と、現地の水だけで十割蕎麦を打つこと。

    つなぎの小麦粉は使わない。

    日本の蕎麦粉を持ち込み、日本の蕎麦を再現するのではない。

    フランスの大地で育った蕎麦を、フランスの水と空気の中で打つ。

    目指しているのは、この土地で生まれる「地蕎麦」だった。

    そして、その十割蕎麦を、高ので長年作り続けてきた護摩蕎麦として提供した。

    大豆のすり身「呉」と黒胡麻を、出汁でのばす。

    護摩蕎麦は、ただの蕎麦メニューではない。

    日本の郷土料理「呉汁」を土台に、僕が日本料理の考えを一つの作品にしたものだ。

    KAKIAGEで表現した「苔」

    渡仏前に作った料理POPの中に、緑に覆われた一皿があった。

    作品の名前は「苔」。

    日本の寺や庭、石や木を静かに覆っていく苔の風景を、料理で表現したかった。

    しかし、「苔」という日本語をフランス語に訳しただけでは、僕が見ている景色までは伝わらない。

    そこで使ったのが、KAKIAGEという日本料理の技法だった。

    フランスで手に入る食材を重ね、揚げる。

    色、香り、食感によって、日本の湿った土や緑の風景を一皿にする。

    日本から苔を運ぶのではない。

    フランスの食材で、日本の風景を立ち上げる。

    それが、この料理で試したかったことだった。

    ベジタリアンのための「きみがよ」

    フランスでは、ベジタリアンのお客様にも僕たちの料理を食べてもらいたかった。

    そこで、豆乳と抹茶を使った料理を作った。

    名題は「きみがよ」。

    動物性の食材を使わないという条件に合わせるだけではない。

    相手の食文化を受け入れながら、日本料理の景色と心を残す。

    豆乳の柔らかさ。
    抹茶の苦味と緑。

    その一椀に、僕が思う日本を託した。

    「苔」と「きみがよ」。

    言葉では説明しきれない日本の景色を、フランスの人に食べてもらうために作った二つの料理だった。

    鶏もも丸々素揚げ、フランスデビュー

    もう一つ、フランスの厨房に初めて立った料理がある。

    高ので作り続けてきた「鶏もも丸々素揚げ」。

    日本で評価された料理だから、フランスでも通用するとは限らない。

    食材も、厨房も、火の入り方も違う。

    ここでも、過去の評価に頼ることはできなかった。

    目の前の一羽と向き合い、この場所でもう一度料理を作る。

    護摩蕎麦。
    フランス十割蕎麦。
    KAKIAGE「苔」。
    豆乳抹茶「きみがよ」。
    そして、鶏もも丸々素揚げ。

    言葉の通じない僕が差し出せる言葉は、やはり料理だった。

    マルセイユで迎えた54歳

    滞在中の3月19日、僕は54歳の誕生日を迎えた。

    ジュリアとミカちゃん、そして家族のみんなが、僕のためにケーキを作って祝ってくれた。

    ケーキの上には、日本の鳥居と緑の苔。

    僕が料理で表現しようとしていた日本の景色を、今度は彼らがケーキにして返してくれた。

    2023年、一年目の挑戦を一緒に手伝ってくれたロバートは、この年はスタッフとして厨房にはいなかった。

    それでも、僕たちに会うために遊びに来てくれた。

    一年前に一緒に働いた時間は、消えていなかった。

    料理を伝えるためにフランスへ来たはずなのに、僕のほうが、たくさんの気持ちを受け取っていた。

    料理は、次の出会いを連れてくる

    有名な料理人だから迎えられたのではない。

    日本で大きな店を持っているわけでもない。

    東京・亀戸の団地の下で、夫婦二人、小さな蕎麦屋を続けてきただけだ。

    それでも、僕たちの料理を信じ、場所を用意し、食べに来て、誕生日まで祝ってくれる人たちがいた。

    料理は、皿を空にして終わるものではなかった。

    人の記憶に残り、次の人と出会うための道を作っていく。

    「苔」と「きみがよ」。

    この二つの料理も、ロバートの厨房だけで終わることはなかった。

    やがて僕たちは、一人のフランス人料理人と出会う。

    彼の名は、クリストフ。

    この時の僕はまだ知らなかった。

    「苔」と「きみがよ」が、彼との料理の中で、再び動き始めることを。

    フランス活動記⑨へ続く。

  • フランス活動記⑦|一日から、二週間へ。僕たちは旅人ではなくなった

    フランス活動記⑦|一日から、二週間へ。僕たちは旅人ではなくなった

    一年前は、一日だけだった

    2023年、初めてRobato Marseilleの厨房に立った。

    料理をしたのは、わずか一日。

    僕たちはホテルに泊まり、ジュリアが声をかけ、客席を埋めてくれた。

    初めて護摩蕎麦をフランスで出した、大切な一日だった。

    けれど、振り返れば、僕たちはまだマルセイユを訪れた旅人だった。

    用意された一日だけの舞台で、日本から持ってきた料理を見てもらった。

    それが一年目だった。

    2024年、すべてが変わった

    一年後、僕とオスギは再びマルセイユへ向かった。

    今度は、一日ではない。

    Robato Marseilleで二週間、僕たちの料理を出す。

    その企画には、僕たちの名前がついていた。

    「RÉSIDENCE TAKANO」

    一年前の一日から、二週間へ。

    料理を見せるだけではない。

    マルセイユで暮らしながら、僕とオスギの料理でレストランを続ける。

    旅の大きさも、預けられた責任も、まるで違っていた。

    ホテルから、教会の横のアパートへ

    滞在先も変わった。

    前年のホテルではなく、2024年は暮らすためのアパートが用意されていた。

    窓を開けると、すぐ横に白い教会が立っていた。

    ベランダからは教会の尖塔、その先に続くマルセイユの街、そして遠くに海が見えた。

    朝、教会に光が差す。

    夕方、街の向こうへ太陽が沈む。

    毎日同じ窓から眺めているうちに、借りた部屋が少しずつ、自分たちの暮らす場所になっていった。

    夜になれば、僕たちは毎晩のように食事へ招かれ、もてなしてもらった。

    料理をしに来ただけの僕たちを、マルセイユの人たちは客人として、仲間として迎えてくれた。

    言葉が十分に通じなくても、同じ食卓を囲めば笑うことができた。

    食べることが、僕たちの間に道をつくってくれた。

    窓から見えた景色を描く

    僕は、アパートの窓から見える教会を描き始めた。

    2024年3月8日。

    最初は、黒一色だった。

    教会の尖塔、窓の外へ延びる街、ベランダの手すり。

    毎日その景色を見ながら、自分の手で少しずつ色を重ねた。

    青い空。

    光を受ける教会。

    その向こうに見える海。

    3月19日、絵を描き終えた。

    完成した絵は、日本へ持ち帰らなかった。

    額に入れ、モデルとなった教会が見える部屋の壁に残した。

    僕たちが帰ったあとも、あの部屋には、僕が見た2024年のマルセイユが残っている。

    旅人ではなくなった

    ホテルから、暮らすためのアパートへ。

    一日の料理から、二週間のレストランへ。

    一年目と二年目では、見える景色も、迎えられ方も、任された仕事も大きく変わっていた。

    けれど、まだ結果は出ていない。

    2023年の客席を埋めてくれたのは、ジュリアだった。

    2024年は違う。

    今度は、僕とオスギ、二人の料理で二週間の客席を埋めなければならない。

    東京・亀戸。

    団地の下の小さな店で、夫婦二人がつくり続けてきた料理。

    護摩蕎麦。

    鶏もも丸丸素揚げ。

    そして、日本から持ってきた「苔」。

    それらは、本当にマルセイユの人たちに届くのだろうか。

    二週間、客は来てくれるのだろうか。

    僕たちはもう、料理を見せに来た旅人ではなかった。

    店と厨房を預けられ、料理で答えを出さなければならなかった。

    Robatoの扉が開く。

    「RÉSIDENCE TAKANO」が、始まる。

    次回、フランス活動記⑧
    「鉄鍋まで、用意されていた。」

  • フランス活動記⑥|伝えたつもりだった。2024年、旅の目的

    フランス活動記⑥|伝えたつもりだった。2024年、旅の目的

    伝えたつもりだった

    2023年、初めてフランス・マルセイユで蕎麦を打った。

    日本から持っていった蕎麦粉を使い、ワークショップで蕎麦打ちを教えた。

    水回し、延し、切り。

    目の前で一本の蕎麦が出来上がり、参加した皆さんも喜んでくれた。

    僕も、蕎麦打ちを伝えられたと思っていた。

    でも、日本へ帰ってから、ひとつの疑問が残った。

    あの人たちは、僕が帰ったあと、どうやって蕎麦を打つのだろう。

    同じ日本の蕎麦粉は、そこにはない。

    僕が見せたのは完成した蕎麦であって、その土地で続けられる蕎麦打ちではなかった。

    教えたつもりになっていただけではないか。

    これは、2023年のワークショップを終えた僕の後悔であり、懺悔でもある。

    2024年、旅の目的

    だから、2024年のフランス行きには、はっきりとした目的があった。

    日本の蕎麦を、そのままフランスへ持っていくことではない。

    フランスの蕎麦粉、フランスの水、フランスの空気。

    その土地にあるもので、十割蕎麦を打つこと。

    僕が帰ったあとにも残る蕎麦打ちを、一緒に考えること。

    「実演する旅」から、「その土地に技術を残す旅」へ。

    それが、二年目の旅の始まりだった。

    Japan Expo Sudへ

    2024年3月。

    僕とオスギは、再びマルセイユへ向かった。

    最初の舞台は、3月8日・9日・10日にParc Chanotで開催されたJapan Expo Sud。

    大勢の観客の前で、十割蕎麦打ちを実演した。

    水と粉だけで、ひとつの生地が生まれる。

    手の中で少しずつ形を変え、延され、細い蕎麦になる。

    日本では毎朝繰り返している仕事が、マルセイユでは文化として見つめられていた。

    けれど、前年までの僕とは少し違った。

    うまく打つことだけが目的ではなかった。

    フランスで、この技術をどう根づかせるか。

    その答えを探しながら、僕は蕎麦を打っていた。

    物語が動き始める

    そして、このJapan Expo Sudで、僕たちはクリストフと出会う。

    この時の僕とオスギは、まだ知らなかった。

    この出会いから長い付き合いが始まり、やがて彼が、僕たちの人生の恩師になることを。

    2024年。

    役者がそろい、フランスでの物語が、本当に動き始めた。

    次回、フランス活動記⑦「クリストフと出会う」へ。

  • EDAMAME GOJIRU — THE NEXT GREEN FROM JAPAN, AFTER MATCHA

    EDAMAME GOJIRU — THE NEXT GREEN FROM JAPAN, AFTER MATCHA

    抹茶に代わる新しい日本の緑|枝豆の呉汁を世界へ

    抹茶に代わる、新しい日本の緑。

    EDAMAME GOJIRU

    日本には、まだ世界に知られていない「緑」があります。

    それは、夏の枝豆。

    そして、日本各地に残る大豆の郷土料理「呉汁」です。

    ■ EDAMAME GOJIRUとは

    呉汁とは、大豆をすり潰した「呉」を使う、日本の郷土料理です。

    東京・亀戸の小さな蕎麦店「鍋蕎麦屋 高の」は、2013年から、この呉汁を蕎麦料理として磨き続けてきました。

    その夏の表現が、新潟県上越市柿崎の枝豆を使った「EDAMAME GOJIRU」です。

    枝豆を滑らかに整え過ぎない。

    香り、粒感、青々しさを残したまま、鰹、昆布、干し椎茸の出汁と合わせ、十割蕎麦のつゆに仕立てます。

    私たちが大切にしているのは、

    「枝豆を整えずに活かす」

    ということです。

    ■ これは、枝豆のポタージュではない

    EDAMAME GOJIRUは、枝豆のポタージュではありません。

    日本の大豆文化と郷土料理「呉汁」を、現代の蕎麦料理として表現したものです。

    抹茶が、色や味だけではなく、日本の土地、文化、作法、物語とともに世界へ広がったように、EDAMAME GOJIRUにも、日本固有の背景があります。

    蕎麦、麺料理、出汁、つけ汁。

    一つの料理にとどまらず、さまざまな形へ展開できる可能性があります。

    ■ 高のと呉汁の始まり

    高のが呉汁を蕎麦に使い始めたのは、2013年です。

    2013年6月、大豆の茹で汁と鰹・昆布の出汁、自家製の江戸甘味噌を合わせた呉汁を蕎麦料理へ。

    同年8月には「胡麻もり蕎麦」という原型が生まれ、10月には鉄鍋を導入。

    そして2014年、大豆の呉と黒練り胡麻を合わせた「護摩蕎麦」を発表しました。

    護摩蕎麦は、高のの呉汁です。

    鰹、昆布、干し椎茸の出汁に、大豆のすり身と黒練り胡麻を合わせ、醤油で整える。

    高のは、十年以上、この日本の大豆料理を蕎麦とともに育ててきました。

    ■ 夏の枝豆を、日本の新しい緑へ

    今回使う枝豆は、新潟県上越市柿崎から届いたものです。

    オスギの母が育て、手をかけた夏の枝豆。

    生産地、作り手、季節、家族の記憶。

    そのすべてが、一杯のEDAMAME GOJIRUに入っています。

    ただ鮮やかな緑色を作りたいのではありません。

    夏の枝豆が持つ香りと力を、そのまま料理に残したい。

    これは新商品を作るだけの試みではなく、日本に昔からある食文化を、次の時代へつなぐ仕事です。

    ■ 十割蕎麦と小麦蕎麦を結ぶもの

    高のには、二つの手打ちがあります。

    毎朝打つ、殻ごと挽いた太く黒い十割蕎麦。

    そして毎週火曜日、十割蕎麦職人が国産小麦で打つ「小麦蕎麦」。

    蕎麦とラーメン。

    二つの異なる麺を結ぶものが、日本の郷土料理「呉汁」です。

    EDAMAME GOJIRUは、十割蕎麦の夏のつゆであり、火曜日の小麦蕎麦へもつながる、高のの料理思想そのものです。

    ■ まだ知られていない日本食を、世界へ

    私たちは、流行を追うためにEDAMAME GOJIRUを作るのではありません。

    まだ世界に知られていない日本の郷土料理を、現代の形で届けたいのです。

    抹茶の次に、世界へ届けたい日本の緑。

    EDAMAME GOJIRU

    料理人であり、日本文化の運び人として。

    東京・亀戸の団地の下、夫婦二人で営む小さな蕎麦店から、この日本の緑を世界へ運びます。

    【ENGLISH】

    THE NEXT GREEN FROM JAPAN, AFTER MATCHA.

    EDAMAME GOJIRU

    Gojiru is a traditional Japanese regional dish made from ground soybeans.

    Since 2013, SOBA TAKANO, a small soba restaurant in Kameido, Tokyo, has been reimagining this heritage through soba cuisine.

    Our summer expression is EDAMAME GOJIRU, made with edamame grown in Kakizaki, Joetsu, Niigata.

    We preserve its fresh aroma, natural texture and vivid green character, combining it with a Japanese dashi of bonito, kombu and dried shiitake mushrooms.

    This is not an edamame potage.

    It is Japanese soybean culture transformed into a contemporary dipping broth for 100% buckwheat soba.

    Like matcha, it carries a distinctive Japanese origin, a cultural story and the potential to inspire new applications across cuisine, noodles and broth.

    We are not simply following a trend.

    We are bringing a lesser-known Japanese food tradition to the world.

    【FRANÇAIS】

    LE NOUVEAU VERT DU JAPON, APRÈS LE MATCHA.

    EDAMAME GOJIRU

    Le gojiru est une spécialité régionale japonaise traditionnelle, préparée à partir de soja broyé.

    Depuis 2013, SOBA TAKANO, un petit restaurant de soba situé à Kameido, Tokyo, réinterprète cette tradition à travers la cuisine du soba.

    Notre création estivale, EDAMAME GOJIRU, est élaborée avec des edamame cultivés à Kakizaki, dans la ville de Joetsu, préfecture de Niigata.

    Nous préservons leur parfum frais, leur texture naturelle et leur couleur verte, puis nous les associons à un dashi japonais de bonite, kombu et shiitake séché.

    Ce n’est pas un velouté d’edamame.

    C’est la culture japonaise du soja réinventée en sauce contemporaine pour les soba 100 % sarrasin.

    Comme le matcha, l’EDAMAME GOJIRU porte une origine japonaise forte, une histoire culturelle et un potentiel d’application dans la cuisine, les nouilles et les bouillons.

    Nous voulons faire voyager dans le monde une tradition culinaire japonaise encore méconnue.

    【台灣華語・繁體中文】

    繼抹茶之後,來自日本的新綠色。

    EDAMAME GOJIRU
    毛豆吳汁

    「GOJIRU(吳汁)」是將大豆磨碎後製成的日本傳統鄉土料理。

    自2013年起,位於東京龜戶的小型蕎麥麵店「SOBA TAKANO 高の」,持續以蕎麥料理重新詮釋這項日本飲食文化。

    夏季創作「EDAMAME GOJIRU」,選用日本新潟縣上越市柿崎所栽培的毛豆。

    我們不過度研磨,保留毛豆清新的香氣、自然顆粒感與鮮明綠意,再搭配柴魚、昆布與乾香菇熬製的日式高湯,成為十割蕎麥麵的沾汁。

    這不是毛豆濃湯。

    這是將日本的大豆飲食文化,重新詮釋為當代蕎麥料理。

    如同抹茶,它擁有鮮明的日本產地背景、文化故事,以及延伸至料理、麵食與高湯的可能性。

    我們希望將世界尚未熟悉的日本鄉土飲食文化,帶向下一個市場。

    東京・亀戸「鍋蕎麦料理 高の」。

    夫婦二人で営む、小さな十割手打ち蕎麦店です。

    SOBA TAKANO
    https://sobatakano.art.blog/

    #EDAMAMEGOJIRU
    #JapaneseFoodInnovation
    #JapaneseLocalFood
    #FoodBuyer
    #SOBATAKANO

  • 【フランス活動記⑤】神社は、あった。|ENSEMBLE――共に

    【フランス活動記⑤】神社は、あった。|ENSEMBLE――共に

    ここまで、2023年に初めてフランスへ渡り、護摩蕎麦を届けるまでを書いてきた。

    けれど、次の年の物語へ進む前に、どうしても書いておかなければならない人たちがいる。

    フランス・ジャパン・コネクション会長のジュリア。

    その夫、ミカちゃん。

    そして、いつも僕の隣にいる妻、オスギ。

    僕のフランス活動は、僕一人の力で作ったものではない。

    三人の仕事がなければ、護摩蕎麦がフランスへ渡ることも、Japan Expo Sudの舞台に立つことも、ディジョンまで蕎麦を運ぶこともなかった。

    これは活動報告ではない。

    僕たち夫婦を信じ、支え、フランスへの道を開いてくれた三人への、心からの感謝状である。

    一枚の鳥居

    コロナ禍が始まった頃、僕はInstagramでフランスのことを探していた。

    「フランス、日本」
    「フランス、神社」
    「フランス、日本食」

    行き先が決まっていたわけではない。ただ、思いつく言葉を入れながら画面を眺めていた。

    その中に、マルセイユの鳥居を描いた一枚の画像が現れた。

    投稿していたのは、フランス・ジャパン・コネクションという団体だった。

    返事は来ないだろうと思いながら、僕はダイレクトメッセージを送った。

    「フランスのマルセイユに、神社があるのですか?」

    すると、返事が来た。

    返信をくれたのが、ジュリアだった。

    返事が来ただけでも驚いた。そのうえジュリアから、

    「一度、オンラインでビデオ会議をしませんか?」

    と誘われた。

    僕のフランス活動は、飛行機に乗った日から始まったのではない。

    一枚の鳥居と、返事は来ないと思いながら送った、一通のメッセージから始まった。

    「あなたは、何ができますか?」

    初めてのオンライン会議。僕は、ずっと気になっていたことを聞いた。

    「マルセイユに、神社があるんですか?」

    ジュリアの答えは、思いがけないものだった。

    「ないです」

    ないのか。

    では、僕がInstagramで見た鳥居は何だったのだろう。おかしいなと思ったけれど、会話はそのまま楽しく続いた。

    そして、もう一つ驚いた。

    ジュリアは、日本語がペラペラだった。

    会話の中で、ジュリアから聞かれた。

    「あなたは、何ができますか?」

    僕は答えた。

    「蕎麦が打てます」

    すべては、その短いやり取りから動き始めた。

    ワークショップだけでは足りなかった

    当時、フランスはまだロックダウンの中にあった。それでも、日本からフランスへ入ることはできた。

    ジュリアから聞かれた。

    「入れるのに、なぜフランスへ来ないのですか?」

    僕は、フランスへ行きたくなかったわけではない。むしろ、行きたかった。

    けれど、僕の夢は蕎麦打ちを教えることだけではなかった。

    東京・亀戸で、夫婦二人で営んできた小さな店の料理。自分で想像し、自分で形にしてきた料理。それを作品として世界へ出すことが、僕の夢だった。

    その夢を、フランスに助けてもらいたいと思っていた。

    だから、一度ワークショップをするだけでは、フランスへ渡る理由として少し足りなかった。

    僕は、そこで足踏みをした。

    「これで、どうですか?」

    それからも、ジュリアとは何度かオンライン会議を重ねた。

    ある日、ジュリアから、すぐにオンラインで話したいと連絡が来た。

    フランスのロックダウンが解除される。そして、マルセイユでJapan Expo Sudが開催される。

    止まっていた時間が、急に動き始めた。

    ジュリアの提案は、一つではなかった。

    Japan Expo Sudでのワークショップ。

    Japan Expo Sudのステージ。

    マルセイユのレストランで料理を出す仕事。

    Sakura Bentoでの蕎麦打ちワークショップ。

    そしてジュリアは、僕に言った。

    「これで、どうですか?」

    蕎麦を教える場所。大勢の人へ技術を見せる場所。そして、自分で考えた料理を、一人の料理人として出せる場所。

    僕がフランスへ渡る理由は、揃った。

    もちろん、答えは「行く」だった。

    けれど、僕からも一つだけ、絶対に譲れない条件を出した。

    「護摩蕎麦をやらせてほしい。それをやらせてもらえるなら、フランスへ行く」

    護摩蕎麦は、日本の古典的な蕎麦料理ではない。

    大豆の呉と黒胡麻を、鰹、昆布、干し椎茸の出汁でのばし、鉄鍋の中で十割蕎麦と合わせる。

    僕が考え、亀戸の小さな店で育ててきた、僕自身の作品だった。

    フランスへ行って、すでに日本にあるものを紹介するだけではない。

    自分が想像し、生み出した料理を世界へ出したかった。

    ジュリアは、その願いに応えてくれた。

    見たことのない料理を信じた人

    ジュリアは、護摩蕎麦を見たことがなかった。もちろん、食べたこともない。

    僕と直接会ったこともなく、僕がどのように蕎麦を打つのかも知らない。

    蕎麦打ちの台も、棒も、鉢も見たことがなかった。

    それでもジュリアは、レストランのオーナーと交渉し、僕が厨房に立つ約束を取りつけた。

    会場を作り、手伝ってくれる人を集め、料理を食べてくれるお客様までつないでくれた。

    一年目の僕には、その仕事の全体が見えていなかった。

    僕に見えていたのは、料理をする当日の厨房だけだった。

    現場には人が足りない。誰が何をするのか分からない。

    僕は料理を完成させなければならない。頭にきた。怒った。

    それも、そのときの僕の本当の気持ちだった。

    けれど、時間が経って分かった。

    その一日を作るために、ジュリアがどれだけの人に連絡し、説明し、交渉し、頭を下げ、話をつないでいたのか。

    僕は、自分の料理を完成させることで精いっぱいだった。

    ジュリアは、その料理を作る場所と、手伝う人と、食べてくれる人まで用意していた。

    二年、三年と時間が経って、僕はようやく、その仕事の大きさに気づいた。

    小さなジャンヌ・ダルク

    2023年、ジュリアと初めて直接会ったのは、マルセイユ・サン=シャルル駅だった。

    オンラインでは何度も話してきたけれど、実際に会ったジュリアは、とても小さかった。

    けれど、その小さな身体で、何人もの人を動かし、僕たちの活動を前へ進めていった。

    決断する。

    交渉する。

    責任を引き受ける。

    問題が起きれば、その真ん中に立つ。

    そして、次の道を切り開く。

    僕には、ジュリアがマルセイユの小さなジャンヌ・ダルクに見える。

    戦うという意味ではない。

    誰も形を知らない仕事を信じ、自分が先頭に立ち、人々を一つの方向へ動かす。

    その勇気と仕事の強さを、僕はそう呼びたい。

    成功者とは、名前が知られた人でも、お金を得た人でもないと思う。

    まだ誰も見ていない可能性を信じ、それが形になるまで人と人をつなぎ、責任を引き受けられる人。

    ジュリアは、僕にとって、そういう成功者である。

    そして僕は、ジュリアの仕事から、女性が仕事の中心に立つことの格好よさと強さを教えてもらった。

    神社は、あった

    駅でジュリアと合流し、そのままSakura Bentoへ向かった。

    店の敷居をまたぎ、奥まで進むと、中庭があった。

    そこに、鳥居があった。

    「これだ!」

    僕は、悲鳴のような声を上げた。

    周りにいたみんなは、何のことか分からない。

    けれど、僕には分かっていた。

    「これだ。僕がInstagramで見たのは、これだ」

    それは神社の建物ではなかった。

    Sakura Bentoの中庭にある、ミカちゃんが手作りした絵馬掛けだった。

    あの画像を見なければ、ジュリアにDMを送ることもなかった。

    ジュリアと出会わなければ、フランスで護摩蕎麦を作ることもなかった。

    神社は、あった。

    建物としてではなく、僕のフランスへの道を開いた、小さくて温かい入口として、そこにあった。

    絵馬は、初めからたくさんあったわけではない。

    僕が日本から送ったものがある。

    自分で持っていったものもある。

    ジュリアが日本へ来たとき、自分で持ち帰ったものもある。

    2026年7月には、赤坂・猿田彦神社の絵馬を送った。

    だから、高野定義にとって、マルセイユのあの場所は「神社のような場所」ではない。

    本当に神社なのである。

    ミカちゃんの仕事

    蕎麦を打つための台と棒を作ってくれたのは、ジュリアの夫、ミカちゃんだった。

    ミカちゃんは、フランスで働く大工さんだ。

    見たこともない日本の蕎麦打ち道具を、僕のために手作りしてくれた。

    ミカちゃんが作った蕎麦台は、今もSakura Bentoで大切に保管されている。

    僕がフランスへ行くたびに、その台で蕎麦を打つ。

    毎年使い、出張先へ行くときにも一緒に連れていく。

    僕はフランス語ができない。

    だけど、分かる。

    ミカちゃんが作った蕎麦台は、角が丸い。

    頼まれた寸法どおりに木を切っただけではない。

    使う人の手を思い、運ぶ人を思い、長く使う未来を思って、角を丸くしてくれた。

    人の仕事には、その人の心が残る。

    ミカちゃんとは毎年会う。

    そしてミカちゃんは、毎年、同じことを聞く。

    「この台は、大丈夫か?」

    僕も毎年、同じように答える。

    「最高だ」

    それだけでいい。

    僕たちには、それで十分伝わっている。

    ミカちゃんは、なんか、天才だ。

    何でもできてしまう。

    けれど、本当にすごいのは、できることを自慢するのではなく、誰かのために黙って使うところだと思う。

    ディジョンまで、夢を運んでくれた人

    ミカちゃんが支えてくれたのは、蕎麦台だけではない。

    ディジョンへ向かう長い高速道路を、ミカちゃんが運転してくれた。

    蕎麦打ちの道具も、重い荷物も、車に積んで運んでくれた。

    僕がフランスで蕎麦を打つためには、粉と水と技術だけでは足りない。

    道具を運び、人を運び、次の町まで連れていってくれる人が必要だった。

    高速道路の写真に写っているのは、ただの移動風景ではない。

    あの道の先まで、ミカちゃんが僕たちのフランス活動を運んでくれた記録だ。

    ミカちゃんは「蕎麦台を作った人」だけではない。

    僕の料理と荷物、そして夢を、実際に運んでくれた人だ。

    オスギが、僕の隣にいる意味

    僕は一人でフランスへ来たのではない。

    いつも僕の隣には、オスギがいる。

    蕎麦を打つ僕のそばで、言葉をつなぎ、人をつなぎ、現場の空気を受け止める。

    Japan Expo Sudの舞台でも、僕の言葉を手に持ち、僕とフランスの人たちの間に立ってくれた。

    僕が料理だけを見て前へ進めるのは、オスギが周りの人と心をつないでくれているからだ。

    夫婦二人で営む亀戸の小さな店。

    その形は、フランスへ来ても変わらなかった。

    僕のフランス活動は、高野定義一人の挑戦ではない。

    最初から、僕たち夫婦の仕事だった。

    ジュリアがフランス側から道を開き、オスギが僕の隣で人と人をつないだ。

    立場も国も違う二人の女性が、それぞれの場所で仕事の中心に立ち、周りへ光を渡してくれた。

    僕は、オスギのことを「アメノウズメ」と呼んでいる。

    天岩戸によって世界が真っ暗になり、皆が沈んでいたとき、一人で踊り、笑いを起こし、光を取り戻すきっかけを作った日本の神様。

    暗いときに、自分が光になる。

    僕にとって、最高の女性だ。

    その名は、アメミ

    2026年、ジュリアとミカちゃんに、新しい命が授かった。

    ある日、ジュリアとカフェで話していた。

    「男の子の名前は決めています。でも、女の子の名前はまだ決まっていません。高野さん、何かありませんか?」

    僕は、オスギとアメノウズメの話をした。

    そして2026年、女の子が生まれた。

    ジュリアは、その子に「アメミ」と名づけた。

    どうやら、あの日に話したアメノウズメから取ったらしい。

    本当に、つけちゃった。

    嬉しいような、困ったような。

    どう受け止めればいいのか分からないほど、不思議で、ありがたい。

    僕はまだ、アメミに会っていない。

    いつか会える日が来たら、伝えたい。

    あなたの名前が生まれた場所には、暗闇の中でも踊り、笑いと光を取り戻した、日本の女性の神様がいるんだよ、と。

    一枚の鳥居から始まった僕たちの物語に、光を呼ぶ女の子が生まれた。

    その名は、アメミ。

    まだ会ったことのない、僕たちの新しい家族だ。

    ENSEMBLE――共に

    2026年、フランスへ出発する前、僕は手の甲に書いた。

    「12日 アンサンブル」

    忘れてはいけない日付と、忘れてはいけない言葉だった。

    ensemble――共に。

    それは、きれいな標語ではない。

    ジュリアが舞台を作る。

    ミカちゃんが道具を作り、荷物と人を運ぶ。

    オスギが言葉と心をつなぐ。

    僕が蕎麦を打ち、料理を作る。

    誰か一人が欠けても、この仕事は成立しない。

    一人の成功ではなく、互いの仕事を尊重し、それぞれの力を持ち寄って、一つの仕事を完成させる。

    その姿を表す言葉が、ensembleだった。

    成功者とは

    僕はフランスで、成功者の意味を考えるようになった。

    成功者とは、有名になった人ではない。

    お金をたくさん持っている人でもない。

    誰かの可能性を信じられる人。

    見えないところで交渉を重ねられる人。

    自分の技術で、必要なものを作れる人。

    重い荷物と一緒に、誰かの夢まで運べる人。

    言葉や国の違いを越えて、人と人をつなげられる人。

    他人の成功を、自分の仕事として支えられる人。

    僕にとって、ジュリアも、ミカちゃんも、オスギも、そういう成功者だ。

    僕が舞台に立ち、蕎麦を打っている写真だけを見れば、主役は僕に見えるかもしれない。

    けれど、本当の主役は、写真の外側にもいる。

    舞台を作った人。

    道具を作った人。

    運んだ人。

    言葉をつないだ人。

    笑顔で迎えてくれた人。

    その全員がいて、初めて僕は蕎麦を打つことができた。

    心から、ありがとう

    ジュリア。

    会ったこともなかった僕に返事をくれて、まだ見たこともない護摩蕎麦を信じ、料理人として立つ場所を作ってくれて、本当にありがとう。

    あなたが何年も続けてきた交渉と、人をつなぐ仕事の大きさを、僕は時間が経ってから、ようやく理解した。

    ミカちゃん。

    蕎麦台と棒を手作りし、毎年その台を気にかけ、重い荷物と僕たちをディジョンまで運んでくれて、本当にありがとう。

    あなたが丸く仕上げた蕎麦台の角には、あなたの仕事と心が残っている。

    オスギ。

    亀戸の店でも、フランスでも、いつも僕の隣に立ち、僕が料理だけを見ていられるように、人と人の間をつないでくれて、本当にありがとう。

    僕のフランス活動は、あなたと二人で作った仕事です。

    一枚の鳥居から始まった縁は、護摩蕎麦、Japan Expo Sud、手作りの蕎麦台、ディジョンへ続く道、そしてアメミという新しい命へつながった。

    来年、僕たちがどこで、どのような仕事をするのかは、まだ分からない。

    けれど、一つだけ分かっている。

    僕は一人では行かない。

    これからも、互いの仕事を尊重し、同じ方向を向き、共に作る。

    ENSEMBLE――共に。

    それが、僕たちの合言葉である。

  • 【フランス活動記④】Robato Marseille|護摩蕎麦が初めて海を渡った日

    【フランス活動記④】Robato Marseille|護摩蕎麦が初めて海を渡った日

    Japan Expo Sudでフランス産蕎麦粉の十割蕎麦を打った翌日、僕たちはマルセイユのRobatoへ向かいました。

    ここで作るのは、ただの蕎麦ではありません。

    東京・亀戸で2014年から作り続けてきた、高のの代表料理「護摩蕎麦」です。

    大豆のすり身と黒胡麻を、鰹・昆布・干し椎茸の出汁でのばす。

    日本の郷土料理「呉汁」から生まれた、高の独自の蕎麦料理です。

    蕎麦打ちから、料理へ

    Sakura Bentoでのワークショップでは、フランスの蕎麦粉と小麦粉を使った二八蕎麦を打ちました。

    Japan Expo Sudでは、フランス産蕎麦粉とフランスの水だけで十割蕎麦を打ちました。

    そしてRobatoでは、その蕎麦を一つの料理として完成させることになりました。

    蕎麦打ちの技術を伝えるだけではない。

    高のの料理そのものを、初めてフランスへ運ぶ日でした。

    Robatoの厨房で

    慣れないフランスの厨房。

    使える食材も、調理器具も、日本とは違います。

    それでもRobatoのロバートさんたちは、僕たちを笑顔で厨房へ迎えてくれました。

    言葉が完全に通じなくても、同じ厨房に立てば分かることがあります。

    野菜を切る音。

    鍋から立ち上る湯気。

    料理が出来上がるまでの緊張。

    そこには国境ではなく、料理人同士の時間がありました。

    フランスで生まれた護摩蕎麦

    フランス産蕎麦粉100%の手打ち十割蕎麦。

    昆布と鰹節の出汁。

    黒胡麻の護摩蕎麦の汁。

    大海老の天ぷらと、野菜を巻いた一品を合わせました。

    東京の護摩蕎麦をそのまま再現したのではありません。

    フランスの素材とRobatoの厨房で、その場所にしかない護摩蕎麦を作りました。

    料理は、場所が変われば姿も変わります。

    しかし、その中心にある思想は変わりません。

    大豆、胡麻、出汁、蕎麦。

    日本の郷土料理を土台にして、現地の素材と一緒に料理を作る。

    それが、僕の考える「地物・地蕎麦」でした。

    護摩蕎麦が海を渡った日

    この日、護摩蕎麦は初めて海を渡りました。

    東京・亀戸の団地の下にある、夫婦二人の小さな蕎麦屋から、遠く離れたマルセイユへ。

    大きな店でも、有名な料理人でもありません。

    それでも、自分たちが長く作り続けてきた料理は、言葉の違う土地でも人と人をつないでくれました。

    蕎麦を海外へ持っていくこと。

    それは、日本と同じものを再現することではありません。

    その土地の粉、その土地の水、その土地の人と一緒に、新しい一杯を作ることです。

    量の勝負ではなく、文化を運ぶ。

    このRobatoでの一夜が、その意味を初めて教えてくれました。

    ロバートさん。

    Robatoの皆さん。

    France Japon Connexionの皆さん。

    そして、マルセイユで僕たちの蕎麦を食べてくださった皆さん。

    心から、ありがとうございました。

    この一杯から、僕たちのフランスでの物語は次の年へと続いていきます。

    Merci Marseille.

    Ensemble.

  • 【フランス活動記③・2023年】Japan Expo Sud、初めての十割蕎麦打ち実演

    【フランス活動記③・2023年】Japan Expo Sud、初めての十割蕎麦打ち実演

    2023年、初めてフランスへ渡り、マルセイユのSakura Bentoで蕎麦打ちワークショップを行った。

    霧下蕎麦本家の地粉と小麦を合わせた二八蕎麦。

    夢だったフランスでの蕎麦打ちは実現した。けれど、心の中に残ったのは、小さな違和感だった。

    フランスまで来たのに、日本から持ってきた蕎麦粉で打っていた。

    「違うな。ここで打つなら、その土地の蕎麦粉と、その土地の水でやるべきだった」

    フランスの大地で育った蕎麦を、フランスの水で十割にする。

    それが、私が本当にやりたかった仕事だった。

    その初めての旅は、Sakura Bentoだけでは終わらなかった。

    私とオスギは、Japan Expo Sudへ向かった。

    今度は、フランス産蕎麦粉100%とフランスの水で、十割蕎麦を打つために。

    夫婦二人で、初めて海を渡る

    亀戸の団地の下にある、小さな蕎麦屋。

    夫婦二人で営む店を離れ、初めて二人でフランスへ向かう飛行機に乗った。

    私が蕎麦を打つ。

    オスギが、言葉と人をつなぐ。

    私のフランスでの仕事は、いつもこの二人から始まる。

    けれど、二人だけではJapan Expo Sudの舞台には立てなかった。

    マルセイユで待っていてくれた仲間たちがいた。

    France Japon Connexionの皆さん、Sakura Bentoで出会った皆さん、そして現地で力を貸してくれた一人ひとり。

    食卓を囲み、言葉を交わし、準備を重ねた。

    国も言葉も違う。それでも、料理の前では同じ方向を向くことができた。

    オスギがつないだ、フランスと日本

    会場では、蕎麦を打つことだけが仕事ではなかった。

    道具を整える。進行を確認する。現地の方へ説明する。集まった人たちの言葉を受け取る。

    その真ん中に、いつもオスギがいた。

    私は粉と水に向かう。

    オスギは、人と人に向かう。

    彼女がフランス語と日本語の間に立ち、私の手仕事に言葉を与えてくれた。

    だから、これは一人の料理人の海外挑戦ではない。

    亀戸の小さな蕎麦屋を営む夫婦二人と、マルセイユの仲間たちが一緒につくった仕事だ。

    Japan Expo Sudで、フランスの十割蕎麦を打つ

    会場のブースに、蕎麦打ち台を置いた。

    亀戸から持ってきた前掛けを掲げ、フランス産の蕎麦粉をふるい、フランスの水を回す。

    つなぎの小麦粉は入れない。

    フランス産蕎麦粉100%の十割蕎麦。

    Sakura Bentoのワークショップで感じた違和感に、同じ初年度のJapan Expo Sudで答えを出した。

    最初は数人だった人の輪が、少しずつ大きくなっていった。

    子どもも、大人も、初めて見る日本の手仕事をじっと見つめていた。

    機械を使えば、もっと早く、もっと均一に作ることができる。

    それでも私は、手で水を回し、手でまとめ、延し、切る。

    非効率を受け入れるところに、職人の仕事がある。

    蕎麦打ちは、言葉がなくても伝わる。

    フランスの粉と水が一つになり、一枚の生地になり、細い麺へ変わっていく。

    その変化を目の前で見てもらうこと自体が、日本文化を運ぶことなのだと思った。

    Sakuraステージへ

    そして、Japan Expo SudのSakuraステージに立った。

    目の前には、マルセイユの大勢の観客。

    背後の大きな画面には、亀戸の小さな店と、私の手元が映し出されていた。

    東京・亀戸で毎朝繰り返している蕎麦打ちが、海を越え、フランスの大舞台につながった。

    特別な技を見せようとは思わなかった。

    いつも店で打っているように、粉を見て、水を感じ、手を動かした。

    ただ、その日だけは、私の手の中に亀戸で積み重ねた技術と、マルセイユの大地と水があった。

    蕎麦は、言葉を越えた

    実演が終わったあと、残ったのは達成感だけではなかった。

    人が集まり、笑い、質問し、写真を撮り、また会おうと言ってくれた。

    蕎麦は、ただ食べるための麺ではなかった。

    人と人を近づける言葉になっていた。

    2023年、Sakura Bentoで感じた「違うな」は、間違いではなかった。

    二八蕎麦から始まった初年度の旅は、2023年、Japan Expo Sudでのフランス十割蕎麦へ進んだ。

    日本から蕎麦を運ぶのではない。

    日本で身につけた技術を運び、その土地の素材で蕎麦を打つ。

    フランスの大地で育った蕎麦を、フランスの水で十割にする。

    その土地の蕎麦を、その土地の水と空気の中で打つ。

    私が「地蕎麦」と呼ぶ仕事が、ここから始まった。

    感謝

    Japan Expo Sudで私たちを迎え、支え、一緒に舞台をつくってくださったマルセイユの皆さんへ。

    心から感謝します。

    私が蕎麦を打ち、オスギが人をつなぎ、皆さんが居場所をつくってくれました。

    一人では、ここまで来られませんでした。

    Merci Marseille. Merci à toute la famille.

    Le soba a dépassé les mots et nous a réunis. Ensemble.

  • 【フランス活動記②】最初は二八だった。Sakura Bentoで気づいた「違うな」

    【フランス活動記②】最初は二八だった。Sakura Bentoで気づいた「違うな」

    東京・亀戸「鍋蕎麦料理 高の」。
    夫婦二人で営む、小さな十割手打ち蕎麦店です。

    コロナ禍の中で、私は一つの夢を決めました。

    フランスで蕎麦を打つ。

    その夢が初めて現実になった場所が、マルセイユの Sakura Bento でした。

    夫婦二人で、マルセイユへ

    蕎麦打ちの道具と白衣を荷物に詰め、オスギと二人で海を渡りました。

    知らない街。聞き慣れない言葉。
    それでも、Sakura Bentoの扉の向こうには、蕎麦を打ってみたいという人たちが待っていました。

    店内には日本の提灯や達磨、鯉のぼりが飾られています。長いテーブルを囲み、参加者の皆さんが一斉に鉢へ手を入れました。

    粉に水を含ませる。
    こねる。延す。切る。

    言葉が十分に通じなくても、同じ粉に触れれば、手の動きで伝わることがあります。

    亀戸の小さな蕎麦屋で続けてきた仕事が、マルセイユで人と人をつなぎ始めた瞬間でした。

    最初に打ったのは、二八蕎麦

    このとき使用したのは、霧下蕎麦本家の地粉と小麦です。

    配合は、蕎麦粉八割、小麦粉二割の二八蕎麦。

    日本から持っていった粉と、これまで培ってきた技術で蕎麦を打つ。参加者の皆さんと一緒に蕎麦を作り、フランスで蕎麦打ち教室を開くという最初の目標は実現しました。

    うれしかった。
    夢の入口には、確かに立てたと思います。

    けれど、心の中に小さな違和感が残りました。

    「違うな」と思った

    フランスまで来て、日本の粉と日本の方法で蕎麦を打つ。

    それは、日本の蕎麦を紹介する仕事としては間違っていません。

    しかし、私が本当にやりたかったことは、これなのだろうか。

    その土地で育った蕎麦を、
    その土地の水で打ち、
    その土地の人と一緒に食べる。

    日本の蕎麦をそのまま運ぶのではなく、フランスの大地からフランスの蕎麦を生み出す。

    私は、それをやりたいのだと気づきました。

    最初のSakura Bentoでの蕎麦打ちは、成功であると同時に、次の課題を教えてくれた一日でした。

    二八から、フランスの十割へ

    1年目に感じた「違うな」が、2年目の目標を決めました。

    フランス産蕎麦粉100%。
    現地の水100%。
    つなぎを使わない十割蕎麦。

    日本の材料を持ち込んで再現するのではない。

    フランスの粉、水、空気の中で蕎麦を打つ。
    それを私は、フランスの「地蕎麦」と考えるようになりました。

    最初から答えが分かっていたわけではありません。

    まず二八蕎麦を打ったからこそ、自分の目指す場所が見えました。

    Sakura Bentoは、夢が実現した場所であり、私の考える「地蕎麦」が始まった場所でもあります。

    夫婦二人の旅

    私が蕎麦を打ち、オスギが人と人をつなぐ。

    これは、一人の料理人の海外挑戦ではありません。

    亀戸で夫婦二人が営む小さな蕎麦屋が、マルセイユの人たちと出会い、少しずつ家族を増やしていく物語です。

    あの日、Sakura Bentoで一緒に粉へ触れた皆さんとの時間が、次の年へつながりました。

    次は、日本の粉を持っていく旅ではありません。

    フランスの大地で育った蕎麦を、フランスの水で十割にする旅です。

    À Marseille, j’ai compris ce que je voulais vraiment faire.
    Créer un soba né de la terre française. Ensemble.

    前の話

    【フランス活動記①】コロナ禍で決めた夢。なぜ私はフランスで十割蕎麦を打つのか

    次の話

    【フランス活動記③】Japan Expo Sud、初めての十割蕎麦打ち実演

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