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  • 「僕の蕎麦が、やっと生まれた――油結びがくれた自由」

    「僕の蕎麦が、やっと生まれた――油結びがくれた自由」

    【タイトル】

    僕の蕎麦が、やっと生まれた――油結びがくれた自由

    今日、初めて分かったことがあります。

    僕は、自分の思う好きな蕎麦粉を、自分の好きなようにブレンドして打ちたかった。

    そして、自分の好きな出汁で食べてほしかった。

    自分の好きな蕎麦です。

    僕の蕎麦。

    それが料理です。

    油結びによって、ようやくその一杯を形にできるようになりました。

    初めて油結びができた時よりも、今のほうが嬉しい。

    なぜ油結びを生み出したのか、その意味が今日、初めて分かったからです。

    【腕前を見せるための蕎麦ではなかった】

    蕎麦には、さまざまなつなぎ方があります。

    僕もいろいろと知り、試し、学んできました。

    しかし、どこか乗り切れない気持ちがありました。

    つなぐ技術そのものが主役になり、腕前を見せるために蕎麦を打っているように感じることがあったからです。

    もちろん、それぞれの技術には意味があり、二八蕎麦を否定するつもりもありません。

    ただ、僕が作りたかった蕎麦は、技術を証明するためのものではなかった。

    蕎麦打ちは競技ではありません。

    僕は料理人として、自分が本当に好きな蕎麦粉を選び、それを自分の出汁と結び、一杯の料理にしたかったのです。

    今日、やっと腕前自慢から解き放たれた気がします。

    技術を捨てたのではありません。

    技術を自慢する必要がなくなったのです。

    【油結びは、蕎麦を邪魔しない】

    油結びは、食用油と水を先に十分に撹拌し、その仕込み水で蕎麦粉100%の生地を水回しする、僕の十割蕎麦の打ち方です。

    この方法の一番素晴らしいところは、油結びそのものが主役にならないことです。

    蕎麦粉の香り、粗さ、色、食感。

    その粉が持つ個性を押さえ込まず、僕の好きなブレンドを蕎麦にできる。

    さらに、油という栄養を一杯へ加えることができる。

    油結びは、ただ切れにくくするための技術ではありません。

    蕎麦を邪魔せず、蕎麦に新しい価値を加え、料理人を自由にする技術です。

    油結びによって、僕は自由になりました。

    【やっと二八から自由になれた】

    これまでは、「この蕎麦粉はつながるか」「十割で打てるか」ということを先に考えていました。

    けれど油結びによって、問いが変わりました。

    「打てるか、打てないか」ではなく、

    「どの蕎麦粉で、どんな蕎麦を料理したいのか」。

    フランスの蕎麦粉も、粗挽きの蕎麦粉も、韃靼蕎麦も、自分が好きなら選べる。

    十割は、純度や腕前を自慢するためのものではなかった。

    料理人が蕎麦粉を自由に選ぶための十割だったのです。

    やっと二八から解放された。

    そして、好きな蕎麦粉で「僕の蕎麦」を作れるようになりました。

    【なぜ、フランスの蕎麦粉を打つのか】

    僕はこれまで、フランスの蕎麦粉で十割蕎麦を打つことに挑戦してきました。

    今日初めて、その本当の理由が分かってきました。

    日本の蕎麦打ちの腕前を、フランスで見せたいからではありません。

    フランスの蕎麦粉を、日本の蕎麦粉と同じものにしたいからでもありません。

    フランスの蕎麦粉の個性を消さず、その土地の粉で「僕の蕎麦」を料理したかったのです。

    粉が変われば、香りも、粗さも、水の入り方も変わります。

    油結びは、その違いを押さえ込むのではなく、受け入れるための方法でした。

    その土地の蕎麦粉を、その土地の水と空気の中で蕎麦にする。

    世界のどこにいても、料理人が好きな粉を選び、自分の蕎麦を作る。

    これが、油結びの素晴らしいところです。

    【結びたかったのは、蕎麦と出汁だった】

    今思えば、僕が本当に結びたかったのは、蕎麦粉と水だけではなかったのだと思います。

    僕が選んだ蕎麦粉と、僕が作ってきた出汁。

    蕎麦と出汁を結びたかった。

    蕎麦は蕎麦打ちの腕前として語られ、出汁は料理として語られる。

    僕の中でも、長い間、その二つが別々だったのかもしれません。

    けれど、本当に作りたかったものは、最初から一杯の料理でした。

    好きな蕎麦粉を選ぶ。

    好きな出汁を作る。

    その二つが出会って、初めて「僕の蕎麦」になる。

    油結びは、粉と水を結び、蕎麦と出汁を結び、日本とフランスを結び、最後に蕎麦打ちと料理人としての僕を結んでくれました。

    【「未来へ蕎麦を」の意味】

    僕は、ずっと「未来へ蕎麦を」と言ってきました。

    しかし、その意味を自分でも十分に分かっていなかったのだと思います。

    未来へ蕎麦を残すとは、昔からの形をそのまま守ることだけではない。

    好きな蕎麦粉を選び、好きな出汁を作り、自分の一杯を料理として完成させる。

    その自由を、次の料理人へ渡すことです。

    未来へ残したいのは、僕が作った一杯だけではありません。

    次の料理人が「僕の蕎麦」「私の蕎麦」を生み出せる可能性です。

    以前、聖書の言葉から、考えることは自由なのだと受け取りました。

    「すべてのことは許されている。しかし、すべてのことが益になるわけではない。」

    ――コリントの信徒への手紙一 10章23節

    考えることは自由。

    試すことも自由。

    けれど、それが料理として人のためになるのか。

    油結びは、自由な発想から始まりました。

    そして今、蕎麦を邪魔せず、自分の好きな一杯を作る自由を、僕に与えてくれました。

    【僕の蕎麦が生まれた日】

    初めて油結びができた日は、技術が生まれた日でした。

    今日は、その技術が何のために生まれたのか分かった日です。

    蕎麦をつなげた日より、料理人として自由になれた日のほうが嬉しい。

    腕前自慢から解き放たれた時、僕の蕎麦打ちは料理になりました。

    自分の思う、好きな蕎麦粉のブレンドで打つ。

    自分の好きな出汁で食べてほしい。

    これは、自分の好きな蕎麦です。

    僕の蕎麦。

    それが料理です。

    僕の蕎麦が、やっと生まれた。

    だから今、未来へ蕎麦を渡せる。

    高野定義

    亀戸養生料理鍋蕎麦屋高の

  • 油結び蕎麦打ちはなぜ切れないのか|2027年春、フランスへ伝える物語

    油結び蕎麦打ちはなぜ切れないのか|2027年春、フランスへ伝える物語

    油結びは、時間と失敗の連続から生まれました。

    世界と日本を繋ぎ、未来に残せるものが、僕にあるだろうか。

    素材を活かす。
    削らない。混ぜ物に頼らない。
    蕎麦を蕎麦のまま、十割で打つ。

    フランスの蕎麦粉で、十割蕎麦を打ちたい。

    その一心から生まれた蕎麦の作り方が「油結び」です。

    産地や性質の異なる、さまざまな蕎麦粉。
    その土地の蕎麦粉を、その土地の水で十割蕎麦にする。

    僕は、そのための蕎麦打ち技術を生み出し、残し、次の世代へ伝えたい。

    日本人として。
    日本料理人として。
    人生の最後まで料理人でありたい。

    世界と日本が繋がる、十割蕎麦打ちチャレンジ。

    これは、油結びをフランスへ伝える物語です。

    フランス活動記11
    亀戸養生料理鍋蕎麦屋高の
    SOBA TAKANO

    #フランス活動記 #油結び #十割蕎麦 #蕎麦打ち #蕎麦打ち技術 #手打ち蕎麦 #粗挽き蕎麦 #削らない蕎麦 #日本料理 #日本料理人 #フランス #マルセイユ #世界と日本を繋ぐ #未来へ残す #SOBATAKANO

  • 【フランス活動記⑤】神社は、あった。|ENSEMBLE――共に

    【フランス活動記⑤】神社は、あった。|ENSEMBLE――共に

    ここまで、2023年に初めてフランスへ渡り、護摩蕎麦を届けるまでを書いてきた。

    けれど、次の年の物語へ進む前に、どうしても書いておかなければならない人たちがいる。

    フランス・ジャパン・コネクション会長のジュリア。

    その夫、ミカちゃん。

    そして、いつも僕の隣にいる妻、オスギ。

    僕のフランス活動は、僕一人の力で作ったものではない。

    三人の仕事がなければ、護摩蕎麦がフランスへ渡ることも、Japan Expo Sudの舞台に立つことも、ディジョンまで蕎麦を運ぶこともなかった。

    これは活動報告ではない。

    僕たち夫婦を信じ、支え、フランスへの道を開いてくれた三人への、心からの感謝状である。

    一枚の鳥居

    コロナ禍が始まった頃、僕はInstagramでフランスのことを探していた。

    「フランス、日本」
    「フランス、神社」
    「フランス、日本食」

    行き先が決まっていたわけではない。ただ、思いつく言葉を入れながら画面を眺めていた。

    その中に、マルセイユの鳥居を描いた一枚の画像が現れた。

    投稿していたのは、フランス・ジャパン・コネクションという団体だった。

    返事は来ないだろうと思いながら、僕はダイレクトメッセージを送った。

    「フランスのマルセイユに、神社があるのですか?」

    すると、返事が来た。

    返信をくれたのが、ジュリアだった。

    返事が来ただけでも驚いた。そのうえジュリアから、

    「一度、オンラインでビデオ会議をしませんか?」

    と誘われた。

    僕のフランス活動は、飛行機に乗った日から始まったのではない。

    一枚の鳥居と、返事は来ないと思いながら送った、一通のメッセージから始まった。

    「あなたは、何ができますか?」

    初めてのオンライン会議。僕は、ずっと気になっていたことを聞いた。

    「マルセイユに、神社があるんですか?」

    ジュリアの答えは、思いがけないものだった。

    「ないです」

    ないのか。

    では、僕がInstagramで見た鳥居は何だったのだろう。おかしいなと思ったけれど、会話はそのまま楽しく続いた。

    そして、もう一つ驚いた。

    ジュリアは、日本語がペラペラだった。

    会話の中で、ジュリアから聞かれた。

    「あなたは、何ができますか?」

    僕は答えた。

    「蕎麦が打てます」

    すべては、その短いやり取りから動き始めた。

    ワークショップだけでは足りなかった

    当時、フランスはまだロックダウンの中にあった。それでも、日本からフランスへ入ることはできた。

    ジュリアから聞かれた。

    「入れるのに、なぜフランスへ来ないのですか?」

    僕は、フランスへ行きたくなかったわけではない。むしろ、行きたかった。

    けれど、僕の夢は蕎麦打ちを教えることだけではなかった。

    東京・亀戸で、夫婦二人で営んできた小さな店の料理。自分で想像し、自分で形にしてきた料理。それを作品として世界へ出すことが、僕の夢だった。

    その夢を、フランスに助けてもらいたいと思っていた。

    だから、一度ワークショップをするだけでは、フランスへ渡る理由として少し足りなかった。

    僕は、そこで足踏みをした。

    「これで、どうですか?」

    それからも、ジュリアとは何度かオンライン会議を重ねた。

    ある日、ジュリアから、すぐにオンラインで話したいと連絡が来た。

    フランスのロックダウンが解除される。そして、マルセイユでJapan Expo Sudが開催される。

    止まっていた時間が、急に動き始めた。

    ジュリアの提案は、一つではなかった。

    Japan Expo Sudでのワークショップ。

    Japan Expo Sudのステージ。

    マルセイユのレストランで料理を出す仕事。

    Sakura Bentoでの蕎麦打ちワークショップ。

    そしてジュリアは、僕に言った。

    「これで、どうですか?」

    蕎麦を教える場所。大勢の人へ技術を見せる場所。そして、自分で考えた料理を、一人の料理人として出せる場所。

    僕がフランスへ渡る理由は、揃った。

    もちろん、答えは「行く」だった。

    けれど、僕からも一つだけ、絶対に譲れない条件を出した。

    「護摩蕎麦をやらせてほしい。それをやらせてもらえるなら、フランスへ行く」

    護摩蕎麦は、日本の古典的な蕎麦料理ではない。

    大豆の呉と黒胡麻を、鰹、昆布、干し椎茸の出汁でのばし、鉄鍋の中で十割蕎麦と合わせる。

    僕が考え、亀戸の小さな店で育ててきた、僕自身の作品だった。

    フランスへ行って、すでに日本にあるものを紹介するだけではない。

    自分が想像し、生み出した料理を世界へ出したかった。

    ジュリアは、その願いに応えてくれた。

    見たことのない料理を信じた人

    ジュリアは、護摩蕎麦を見たことがなかった。もちろん、食べたこともない。

    僕と直接会ったこともなく、僕がどのように蕎麦を打つのかも知らない。

    蕎麦打ちの台も、棒も、鉢も見たことがなかった。

    それでもジュリアは、レストランのオーナーと交渉し、僕が厨房に立つ約束を取りつけた。

    会場を作り、手伝ってくれる人を集め、料理を食べてくれるお客様までつないでくれた。

    一年目の僕には、その仕事の全体が見えていなかった。

    僕に見えていたのは、料理をする当日の厨房だけだった。

    現場には人が足りない。誰が何をするのか分からない。

    僕は料理を完成させなければならない。頭にきた。怒った。

    それも、そのときの僕の本当の気持ちだった。

    けれど、時間が経って分かった。

    その一日を作るために、ジュリアがどれだけの人に連絡し、説明し、交渉し、頭を下げ、話をつないでいたのか。

    僕は、自分の料理を完成させることで精いっぱいだった。

    ジュリアは、その料理を作る場所と、手伝う人と、食べてくれる人まで用意していた。

    二年、三年と時間が経って、僕はようやく、その仕事の大きさに気づいた。

    小さなジャンヌ・ダルク

    2023年、ジュリアと初めて直接会ったのは、マルセイユ・サン=シャルル駅だった。

    オンラインでは何度も話してきたけれど、実際に会ったジュリアは、とても小さかった。

    けれど、その小さな身体で、何人もの人を動かし、僕たちの活動を前へ進めていった。

    決断する。

    交渉する。

    責任を引き受ける。

    問題が起きれば、その真ん中に立つ。

    そして、次の道を切り開く。

    僕には、ジュリアがマルセイユの小さなジャンヌ・ダルクに見える。

    戦うという意味ではない。

    誰も形を知らない仕事を信じ、自分が先頭に立ち、人々を一つの方向へ動かす。

    その勇気と仕事の強さを、僕はそう呼びたい。

    成功者とは、名前が知られた人でも、お金を得た人でもないと思う。

    まだ誰も見ていない可能性を信じ、それが形になるまで人と人をつなぎ、責任を引き受けられる人。

    ジュリアは、僕にとって、そういう成功者である。

    そして僕は、ジュリアの仕事から、女性が仕事の中心に立つことの格好よさと強さを教えてもらった。

    神社は、あった

    駅でジュリアと合流し、そのままSakura Bentoへ向かった。

    店の敷居をまたぎ、奥まで進むと、中庭があった。

    そこに、鳥居があった。

    「これだ!」

    僕は、悲鳴のような声を上げた。

    周りにいたみんなは、何のことか分からない。

    けれど、僕には分かっていた。

    「これだ。僕がInstagramで見たのは、これだ」

    それは神社の建物ではなかった。

    Sakura Bentoの中庭にある、ミカちゃんが手作りした絵馬掛けだった。

    あの画像を見なければ、ジュリアにDMを送ることもなかった。

    ジュリアと出会わなければ、フランスで護摩蕎麦を作ることもなかった。

    神社は、あった。

    建物としてではなく、僕のフランスへの道を開いた、小さくて温かい入口として、そこにあった。

    絵馬は、初めからたくさんあったわけではない。

    僕が日本から送ったものがある。

    自分で持っていったものもある。

    ジュリアが日本へ来たとき、自分で持ち帰ったものもある。

    2026年7月には、赤坂・猿田彦神社の絵馬を送った。

    だから、高野定義にとって、マルセイユのあの場所は「神社のような場所」ではない。

    本当に神社なのである。

    ミカちゃんの仕事

    蕎麦を打つための台と棒を作ってくれたのは、ジュリアの夫、ミカちゃんだった。

    ミカちゃんは、フランスで働く大工さんだ。

    見たこともない日本の蕎麦打ち道具を、僕のために手作りしてくれた。

    ミカちゃんが作った蕎麦台は、今もSakura Bentoで大切に保管されている。

    僕がフランスへ行くたびに、その台で蕎麦を打つ。

    毎年使い、出張先へ行くときにも一緒に連れていく。

    僕はフランス語ができない。

    だけど、分かる。

    ミカちゃんが作った蕎麦台は、角が丸い。

    頼まれた寸法どおりに木を切っただけではない。

    使う人の手を思い、運ぶ人を思い、長く使う未来を思って、角を丸くしてくれた。

    人の仕事には、その人の心が残る。

    ミカちゃんとは毎年会う。

    そしてミカちゃんは、毎年、同じことを聞く。

    「この台は、大丈夫か?」

    僕も毎年、同じように答える。

    「最高だ」

    それだけでいい。

    僕たちには、それで十分伝わっている。

    ミカちゃんは、なんか、天才だ。

    何でもできてしまう。

    けれど、本当にすごいのは、できることを自慢するのではなく、誰かのために黙って使うところだと思う。

    ディジョンまで、夢を運んでくれた人

    ミカちゃんが支えてくれたのは、蕎麦台だけではない。

    ディジョンへ向かう長い高速道路を、ミカちゃんが運転してくれた。

    蕎麦打ちの道具も、重い荷物も、車に積んで運んでくれた。

    僕がフランスで蕎麦を打つためには、粉と水と技術だけでは足りない。

    道具を運び、人を運び、次の町まで連れていってくれる人が必要だった。

    高速道路の写真に写っているのは、ただの移動風景ではない。

    あの道の先まで、ミカちゃんが僕たちのフランス活動を運んでくれた記録だ。

    ミカちゃんは「蕎麦台を作った人」だけではない。

    僕の料理と荷物、そして夢を、実際に運んでくれた人だ。

    オスギが、僕の隣にいる意味

    僕は一人でフランスへ来たのではない。

    いつも僕の隣には、オスギがいる。

    蕎麦を打つ僕のそばで、言葉をつなぎ、人をつなぎ、現場の空気を受け止める。

    Japan Expo Sudの舞台でも、僕の言葉を手に持ち、僕とフランスの人たちの間に立ってくれた。

    僕が料理だけを見て前へ進めるのは、オスギが周りの人と心をつないでくれているからだ。

    夫婦二人で営む亀戸の小さな店。

    その形は、フランスへ来ても変わらなかった。

    僕のフランス活動は、高野定義一人の挑戦ではない。

    最初から、僕たち夫婦の仕事だった。

    ジュリアがフランス側から道を開き、オスギが僕の隣で人と人をつないだ。

    立場も国も違う二人の女性が、それぞれの場所で仕事の中心に立ち、周りへ光を渡してくれた。

    僕は、オスギのことを「アメノウズメ」と呼んでいる。

    天岩戸によって世界が真っ暗になり、皆が沈んでいたとき、一人で踊り、笑いを起こし、光を取り戻すきっかけを作った日本の神様。

    暗いときに、自分が光になる。

    僕にとって、最高の女性だ。

    その名は、アメミ

    2026年、ジュリアとミカちゃんに、新しい命が授かった。

    ある日、ジュリアとカフェで話していた。

    「男の子の名前は決めています。でも、女の子の名前はまだ決まっていません。高野さん、何かありませんか?」

    僕は、オスギとアメノウズメの話をした。

    そして2026年、女の子が生まれた。

    ジュリアは、その子に「アメミ」と名づけた。

    どうやら、あの日に話したアメノウズメから取ったらしい。

    本当に、つけちゃった。

    嬉しいような、困ったような。

    どう受け止めればいいのか分からないほど、不思議で、ありがたい。

    僕はまだ、アメミに会っていない。

    いつか会える日が来たら、伝えたい。

    あなたの名前が生まれた場所には、暗闇の中でも踊り、笑いと光を取り戻した、日本の女性の神様がいるんだよ、と。

    一枚の鳥居から始まった僕たちの物語に、光を呼ぶ女の子が生まれた。

    その名は、アメミ。

    まだ会ったことのない、僕たちの新しい家族だ。

    ENSEMBLE――共に

    2026年、フランスへ出発する前、僕は手の甲に書いた。

    「12日 アンサンブル」

    忘れてはいけない日付と、忘れてはいけない言葉だった。

    ensemble――共に。

    それは、きれいな標語ではない。

    ジュリアが舞台を作る。

    ミカちゃんが道具を作り、荷物と人を運ぶ。

    オスギが言葉と心をつなぐ。

    僕が蕎麦を打ち、料理を作る。

    誰か一人が欠けても、この仕事は成立しない。

    一人の成功ではなく、互いの仕事を尊重し、それぞれの力を持ち寄って、一つの仕事を完成させる。

    その姿を表す言葉が、ensembleだった。

    成功者とは

    僕はフランスで、成功者の意味を考えるようになった。

    成功者とは、有名になった人ではない。

    お金をたくさん持っている人でもない。

    誰かの可能性を信じられる人。

    見えないところで交渉を重ねられる人。

    自分の技術で、必要なものを作れる人。

    重い荷物と一緒に、誰かの夢まで運べる人。

    言葉や国の違いを越えて、人と人をつなげられる人。

    他人の成功を、自分の仕事として支えられる人。

    僕にとって、ジュリアも、ミカちゃんも、オスギも、そういう成功者だ。

    僕が舞台に立ち、蕎麦を打っている写真だけを見れば、主役は僕に見えるかもしれない。

    けれど、本当の主役は、写真の外側にもいる。

    舞台を作った人。

    道具を作った人。

    運んだ人。

    言葉をつないだ人。

    笑顔で迎えてくれた人。

    その全員がいて、初めて僕は蕎麦を打つことができた。

    心から、ありがとう

    ジュリア。

    会ったこともなかった僕に返事をくれて、まだ見たこともない護摩蕎麦を信じ、料理人として立つ場所を作ってくれて、本当にありがとう。

    あなたが何年も続けてきた交渉と、人をつなぐ仕事の大きさを、僕は時間が経ってから、ようやく理解した。

    ミカちゃん。

    蕎麦台と棒を手作りし、毎年その台を気にかけ、重い荷物と僕たちをディジョンまで運んでくれて、本当にありがとう。

    あなたが丸く仕上げた蕎麦台の角には、あなたの仕事と心が残っている。

    オスギ。

    亀戸の店でも、フランスでも、いつも僕の隣に立ち、僕が料理だけを見ていられるように、人と人の間をつないでくれて、本当にありがとう。

    僕のフランス活動は、あなたと二人で作った仕事です。

    一枚の鳥居から始まった縁は、護摩蕎麦、Japan Expo Sud、手作りの蕎麦台、ディジョンへ続く道、そしてアメミという新しい命へつながった。

    来年、僕たちがどこで、どのような仕事をするのかは、まだ分からない。

    けれど、一つだけ分かっている。

    僕は一人では行かない。

    これからも、互いの仕事を尊重し、同じ方向を向き、共に作る。

    ENSEMBLE――共に。

    それが、僕たちの合言葉である。

  • 【フランス活動記④】Robato Marseille|護摩蕎麦が初めて海を渡った日

    【フランス活動記④】Robato Marseille|護摩蕎麦が初めて海を渡った日

    Japan Expo Sudでフランス産蕎麦粉の十割蕎麦を打った翌日、僕たちはマルセイユのRobatoへ向かいました。

    ここで作るのは、ただの蕎麦ではありません。

    東京・亀戸で2014年から作り続けてきた、高のの代表料理「護摩蕎麦」です。

    大豆のすり身と黒胡麻を、鰹・昆布・干し椎茸の出汁でのばす。

    日本の郷土料理「呉汁」から生まれた、高の独自の蕎麦料理です。

    蕎麦打ちから、料理へ

    Sakura Bentoでのワークショップでは、フランスの蕎麦粉と小麦粉を使った二八蕎麦を打ちました。

    Japan Expo Sudでは、フランス産蕎麦粉とフランスの水だけで十割蕎麦を打ちました。

    そしてRobatoでは、その蕎麦を一つの料理として完成させることになりました。

    蕎麦打ちの技術を伝えるだけではない。

    高のの料理そのものを、初めてフランスへ運ぶ日でした。

    Robatoの厨房で

    慣れないフランスの厨房。

    使える食材も、調理器具も、日本とは違います。

    それでもRobatoのロバートさんたちは、僕たちを笑顔で厨房へ迎えてくれました。

    言葉が完全に通じなくても、同じ厨房に立てば分かることがあります。

    野菜を切る音。

    鍋から立ち上る湯気。

    料理が出来上がるまでの緊張。

    そこには国境ではなく、料理人同士の時間がありました。

    フランスで生まれた護摩蕎麦

    フランス産蕎麦粉100%の手打ち十割蕎麦。

    昆布と鰹節の出汁。

    黒胡麻の護摩蕎麦の汁。

    大海老の天ぷらと、野菜を巻いた一品を合わせました。

    東京の護摩蕎麦をそのまま再現したのではありません。

    フランスの素材とRobatoの厨房で、その場所にしかない護摩蕎麦を作りました。

    料理は、場所が変われば姿も変わります。

    しかし、その中心にある思想は変わりません。

    大豆、胡麻、出汁、蕎麦。

    日本の郷土料理を土台にして、現地の素材と一緒に料理を作る。

    それが、僕の考える「地物・地蕎麦」でした。

    護摩蕎麦が海を渡った日

    この日、護摩蕎麦は初めて海を渡りました。

    東京・亀戸の団地の下にある、夫婦二人の小さな蕎麦屋から、遠く離れたマルセイユへ。

    大きな店でも、有名な料理人でもありません。

    それでも、自分たちが長く作り続けてきた料理は、言葉の違う土地でも人と人をつないでくれました。

    蕎麦を海外へ持っていくこと。

    それは、日本と同じものを再現することではありません。

    その土地の粉、その土地の水、その土地の人と一緒に、新しい一杯を作ることです。

    量の勝負ではなく、文化を運ぶ。

    このRobatoでの一夜が、その意味を初めて教えてくれました。

    ロバートさん。

    Robatoの皆さん。

    France Japon Connexionの皆さん。

    そして、マルセイユで僕たちの蕎麦を食べてくださった皆さん。

    心から、ありがとうございました。

    この一杯から、僕たちのフランスでの物語は次の年へと続いていきます。

    Merci Marseille.

    Ensemble.

  • 【フランス活動記③・2023年】Japan Expo Sud、初めての十割蕎麦打ち実演

    【フランス活動記③・2023年】Japan Expo Sud、初めての十割蕎麦打ち実演

    2023年、初めてフランスへ渡り、マルセイユのSakura Bentoで蕎麦打ちワークショップを行った。

    霧下蕎麦本家の地粉と小麦を合わせた二八蕎麦。

    夢だったフランスでの蕎麦打ちは実現した。けれど、心の中に残ったのは、小さな違和感だった。

    フランスまで来たのに、日本から持ってきた蕎麦粉で打っていた。

    「違うな。ここで打つなら、その土地の蕎麦粉と、その土地の水でやるべきだった」

    フランスの大地で育った蕎麦を、フランスの水で十割にする。

    それが、私が本当にやりたかった仕事だった。

    その初めての旅は、Sakura Bentoだけでは終わらなかった。

    私とオスギは、Japan Expo Sudへ向かった。

    今度は、フランス産蕎麦粉100%とフランスの水で、十割蕎麦を打つために。

    夫婦二人で、初めて海を渡る

    亀戸の団地の下にある、小さな蕎麦屋。

    夫婦二人で営む店を離れ、初めて二人でフランスへ向かう飛行機に乗った。

    私が蕎麦を打つ。

    オスギが、言葉と人をつなぐ。

    私のフランスでの仕事は、いつもこの二人から始まる。

    けれど、二人だけではJapan Expo Sudの舞台には立てなかった。

    マルセイユで待っていてくれた仲間たちがいた。

    France Japon Connexionの皆さん、Sakura Bentoで出会った皆さん、そして現地で力を貸してくれた一人ひとり。

    食卓を囲み、言葉を交わし、準備を重ねた。

    国も言葉も違う。それでも、料理の前では同じ方向を向くことができた。

    オスギがつないだ、フランスと日本

    会場では、蕎麦を打つことだけが仕事ではなかった。

    道具を整える。進行を確認する。現地の方へ説明する。集まった人たちの言葉を受け取る。

    その真ん中に、いつもオスギがいた。

    私は粉と水に向かう。

    オスギは、人と人に向かう。

    彼女がフランス語と日本語の間に立ち、私の手仕事に言葉を与えてくれた。

    だから、これは一人の料理人の海外挑戦ではない。

    亀戸の小さな蕎麦屋を営む夫婦二人と、マルセイユの仲間たちが一緒につくった仕事だ。

    Japan Expo Sudで、フランスの十割蕎麦を打つ

    会場のブースに、蕎麦打ち台を置いた。

    亀戸から持ってきた前掛けを掲げ、フランス産の蕎麦粉をふるい、フランスの水を回す。

    つなぎの小麦粉は入れない。

    フランス産蕎麦粉100%の十割蕎麦。

    Sakura Bentoのワークショップで感じた違和感に、同じ初年度のJapan Expo Sudで答えを出した。

    最初は数人だった人の輪が、少しずつ大きくなっていった。

    子どもも、大人も、初めて見る日本の手仕事をじっと見つめていた。

    機械を使えば、もっと早く、もっと均一に作ることができる。

    それでも私は、手で水を回し、手でまとめ、延し、切る。

    非効率を受け入れるところに、職人の仕事がある。

    蕎麦打ちは、言葉がなくても伝わる。

    フランスの粉と水が一つになり、一枚の生地になり、細い麺へ変わっていく。

    その変化を目の前で見てもらうこと自体が、日本文化を運ぶことなのだと思った。

    Sakuraステージへ

    そして、Japan Expo SudのSakuraステージに立った。

    目の前には、マルセイユの大勢の観客。

    背後の大きな画面には、亀戸の小さな店と、私の手元が映し出されていた。

    東京・亀戸で毎朝繰り返している蕎麦打ちが、海を越え、フランスの大舞台につながった。

    特別な技を見せようとは思わなかった。

    いつも店で打っているように、粉を見て、水を感じ、手を動かした。

    ただ、その日だけは、私の手の中に亀戸で積み重ねた技術と、マルセイユの大地と水があった。

    蕎麦は、言葉を越えた

    実演が終わったあと、残ったのは達成感だけではなかった。

    人が集まり、笑い、質問し、写真を撮り、また会おうと言ってくれた。

    蕎麦は、ただ食べるための麺ではなかった。

    人と人を近づける言葉になっていた。

    2023年、Sakura Bentoで感じた「違うな」は、間違いではなかった。

    二八蕎麦から始まった初年度の旅は、2023年、Japan Expo Sudでのフランス十割蕎麦へ進んだ。

    日本から蕎麦を運ぶのではない。

    日本で身につけた技術を運び、その土地の素材で蕎麦を打つ。

    フランスの大地で育った蕎麦を、フランスの水で十割にする。

    その土地の蕎麦を、その土地の水と空気の中で打つ。

    私が「地蕎麦」と呼ぶ仕事が、ここから始まった。

    感謝

    Japan Expo Sudで私たちを迎え、支え、一緒に舞台をつくってくださったマルセイユの皆さんへ。

    心から感謝します。

    私が蕎麦を打ち、オスギが人をつなぎ、皆さんが居場所をつくってくれました。

    一人では、ここまで来られませんでした。

    Merci Marseille. Merci à toute la famille.

    Le soba a dépassé les mots et nous a réunis. Ensemble.

  • 【フランス活動記①】コロナ禍で決めた夢。なぜ私はフランスで十割蕎麦を打つのか

    【フランス活動記①】コロナ禍で決めた夢。なぜ私はフランスで十割蕎麦を打つのか

    東京・亀戸「鍋蕎麦料理 高の」。

    夫婦二人で営む、小さな十割手打ち蕎麦店です。

    私がフランスを目指すようになったのは、コロナ禍の中でした。

    店を思うように開けられない日々。

    先が見えない中で、もう一度店を開けられる日が来たら、高のをどんな店にしたいのか。自分は何者として生きていきたいのか。

    私は、それを考えました。

    「飲み屋」から「蕎麦屋」へ

    それまでの高のは、お酒と料理を楽しむ店として知られていました。

    しかし、私が本当に残したかったものは、それだけではありませんでした。

    高のの認知を「飲み屋」から「蕎麦屋」へ変える。

    夜を中心にしていた営業時間を朝へ移し、毎朝、十割蕎麦を打つ。

    蕎麦を店の真ん中に置き、自分の仕事をもう一度つくり直す。

    コロナ禍で店が止まった時間は、私にとって、自分の料理人人生を考え直す時間になりました。

    日本人の料理人と呼ばれたい

    私は、ただ「蕎麦を打つ人」と呼ばれたいわけではありません。

    「日本人の料理人」と呼ばれたい。

    十割蕎麦も、護摩蕎麦も、出汁も、呉汁も、鉄鍋も、鶏の素揚げも、すべて私が考える日本料理です。

    では、その料理が日本の外へ出たときにも通用するのか。

    食の国・フランスで認められれば、自分が続けてきた料理が、日本料理として世界に届くかもしれない。

    食のフランスで一旗あげたい。

    それが、店を再び開けるときに掲げた目標であり、私の夢になりました。

    日本から蕎麦を持っていくのではない

    私がやりたかったのは、日本の蕎麦粉をフランスへ運んで、日本と同じ蕎麦を再現することではありません。

    フランスで育った蕎麦を、フランスの水で打つ。

    その土地の粉、その土地の水、その土地の空気の中で十割蕎麦を作り、その土地の人と一緒に食べる。

    それが、私の考える「地蕎麦」です。

    十割蕎麦は、日本だけの材料でなければ作れないものではありません。

    土地が変われば、香りも、水も、蕎麦の表情も変わる。

    その違いを受け入れて、フランスの大地の味を十割蕎麦にすることに意味があると考えました。

    パンの国なら、蕎麦の心も伝わる

    フランスでは、パンは単なる食べ物ではありません。

    小麦と水から作られ、土地や暮らしとともにある文化です。

    蕎麦も同じです。

    粉と水だけの簡素な料理だからこそ、素材、土地、作り手の技術が表れます。

    パンを文化として大切にする人たちなら、十割蕎麦の心も理解してくれるのではないか。

    私はそう信じて、フランスを選びました。

    夢は、マルセイユからディジョンへ

    最初は、コロナ禍の中で思い描いただけの夢でした。

    その夢がマルセイユへつながり、Sakura Bentoでのワークショップ、Japan Expo Sudでの蕎麦打ち、Robato Marseilleでの護摩蕎麦へと、一つずつ現実になっていきました。

    そして今、次に目指しているのはディジョンです。

    マルセイユで出会った仲間たちとともに、フランスの食文化の中へ、十割蕎麦と高のの料理を届けたい。

    量の勝負ではありません。

    料理人として、日本の食文化を運ぶ。

    コロナ禍で掲げた目標は、今も終わっていません。

    あのとき描いた夢の、まだ途中にいます。


    次回
    【フランス活動記②】Sakura Bentoで初めて開いた、十割蕎麦打ちワークショップ

    フランス産蕎麦粉と現地の水で、人々と一緒に蕎麦を打った最初の日を記します。

    店舗情報・公式ブログ
    https://sobatakano.art.blog/

  • 鍋蕎麦 その定義。

    鍋蕎麦 その定義。

    十割蕎麦を、温かく、最後まで美味しく召し上がっていただく。

    その答えが、私たちの「鍋蕎麦」でした。

    蕎麦は、蕎麦の実を挽き、蕎麦切りとなり、日本人はそこへ出汁を合わせる知恵を育ててきました。

    これは、まさに日本料理の知恵です。

    私たちは十割蕎麦を打ち続ける中で、熱を加えた十割蕎麦の美味しさを、もっと引き出したいと考えました。

    その結果、一つの鍋で仕立てるという形にたどり着きました。

    鍋の中で出汁と旬の食材が調和し、十割蕎麦は最後まで美味しく味わえる。

    だから私たちは、この料理を「鍋蕎麦」と呼びます。

    鍋蕎麦屋とは、日本料理を一つの鍋で表現する蕎麦屋。

    出汁、呉汁、護摩、旬の食材。

    日本料理が育んできた知恵を、一つの鍋に込める。

    NABESOBA=鍋蕎麦です。護摩蕎麦ではありません。
    護摩蕎麦は、高ののNABESOBAを代表する一品です。
    普段の十割蕎麦も、火曜日の小麦蕎麦も、一食を設計する思想によってNABESOBAにつながっています

    それが、亀戸養生料理鍋蕎麦屋 高のです。

  • EDAMAME GOJIRU — THE NEXT GREEN FROM JAPAN, AFTER MATCHA #4

    EDAMAME GOJIRU — THE NEXT GREEN FROM JAPAN, AFTER MATCHA #4

    抹茶に代わる新しい日本の緑|枝豆の呉汁を世界へ

    第一章
    フランスの呉を探した。
    答えは、じゃがいもだった。
    妻の肉じゃがへの想いから、じゃがいもの出汁が生まれた。

    第二章
    原点へ進む。
    大豆の呉で出汁をとる。
    護摩蕎麦を生んだ呉汁の思想を、手打ちラーメンへ。

    言葉にするなら、

    GOJIRU STYLE RAMEN 第二章
    フランスで見つけたじゃがいもの呉から、
    日本の原点である大豆の呉へ。

    これは味の変更ではありません。
    高のの哲学が、さらに深くなる一杯です。

    Not Tonkotsu.
    Not Chicken.
    GOJIRU STYLE.

    A New Japanese Ramen Culture.

    SOBA TAKANO

    亀戸 養生料理 高の

    東京都江東区亀戸。

    十割蕎麦とGOJIRU STYLEを発信しています。

  • 蕎麦打ち職人手打ちラーメンシリーズ #03

    蕎麦打ち職人手打ちラーメンシリーズ #03

    妻の肉じゃがが教えてくれたこと

    誰かを思いながら作る。

    それが、料理だと思っています。

    手打ち小麦そばつけ麺のスープは、妻・オスギの肉じゃがから生まれました。

    家族のことを思い、毎日当たり前のように作ってくれる一皿。

    その優しさを、一杯のつけ麺で表現したいと思ったのです。

    じゃがいもと大根をゆっくり炊き、鰹、昆布、椎茸、豚の旨味を重ねる。

    美味しさだけを追いかけるのではなく、食べる人の身体と心に寄り添う味。

    それが私の目指す日本料理です。

    日本料理は「バランス」。

    麺とスープがお互いを生かし合い、丸く調和する。

    その一杯には、感謝が詰まっています。

    オスギへ。

    そして、フランス・マルセイユのクリス、新潟のお母ちゃん。

    いつも支えてくださる皆さんへ。

    料理は、誰かへのラブレター。

    これからも、一杯一杯に心を込めて打ち続けます。

    SOBA TAKANO
    ラーメンシリーズ #2
    料理は、誰かを思う心から生まれる。

    SOBA TAKANO

    亀戸 養生料理 高の

    東京都江東区亀戸。

    十割蕎麦とGOJIRU STYLEを発信しています。

  • 🇫🇷🤝🇯🇵 フランスシリーズ #0

    🇫🇷🤝🇯🇵 フランスシリーズ #0

    はじめてのフランス

    Japan Expo Sud 2023、日本文化を届ける最初の一歩

    2023年2月。

    私は初めてフランス・マルセイユの地を訪れました。

    目的は、Japan Expo Sudで十割蕎麦打ちを披露すること。

    言葉も文化も違う場所で、日本料理人として何が伝えられるのか。

    期待と不安を胸に、日本を出発しました。

    この旅が、私のフランスでの活動の始まりです。

    飛行機で日本を離れ、マルセイユへ。

    Japan Expo Sudでは、ステージでの蕎麦打ち実演、ブースでのワークショップを行い、多くの方に日本の十割蕎麦を体験していただきました。

    この経験が、その後のフランスでの活動につながり、「フランスの蕎麦粉・水・空気で打つ十割蕎麦」という現在の挑戦へと発展していきます。

    振り返れば、すべてはこの旅から始まりました。

    世界と日本が繋がる十割蕎麦打ちチャレンジ。

    その第一歩を、ここに記録します。

    SOBA TAKANO

    亀戸 養生料理 高の

    東京都江東区亀戸。

    十割蕎麦とGOJIRU STYLEを発信しています。

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