ここまで、2023年に初めてフランスへ渡り、護摩蕎麦を届けるまでを書いてきた。
けれど、次の年の物語へ進む前に、どうしても書いておかなければならない人たちがいる。
フランス・ジャパン・コネクション会長のジュリア。
その夫、ミカちゃん。
そして、いつも僕の隣にいる妻、オスギ。
僕のフランス活動は、僕一人の力で作ったものではない。
三人の仕事がなければ、護摩蕎麦がフランスへ渡ることも、Japan Expo Sudの舞台に立つことも、ディジョンまで蕎麦を運ぶこともなかった。
これは活動報告ではない。
僕たち夫婦を信じ、支え、フランスへの道を開いてくれた三人への、心からの感謝状である。
一枚の鳥居
コロナ禍が始まった頃、僕はInstagramでフランスのことを探していた。
「フランス、日本」
「フランス、神社」
「フランス、日本食」
行き先が決まっていたわけではない。ただ、思いつく言葉を入れながら画面を眺めていた。
その中に、マルセイユの鳥居を描いた一枚の画像が現れた。
投稿していたのは、フランス・ジャパン・コネクションという団体だった。
返事は来ないだろうと思いながら、僕はダイレクトメッセージを送った。
「フランスのマルセイユに、神社があるのですか?」
すると、返事が来た。
返信をくれたのが、ジュリアだった。
返事が来ただけでも驚いた。そのうえジュリアから、
「一度、オンラインでビデオ会議をしませんか?」
と誘われた。
僕のフランス活動は、飛行機に乗った日から始まったのではない。
一枚の鳥居と、返事は来ないと思いながら送った、一通のメッセージから始まった。
「あなたは、何ができますか?」
初めてのオンライン会議。僕は、ずっと気になっていたことを聞いた。
「マルセイユに、神社があるんですか?」
ジュリアの答えは、思いがけないものだった。
「ないです」
ないのか。
では、僕がInstagramで見た鳥居は何だったのだろう。おかしいなと思ったけれど、会話はそのまま楽しく続いた。
そして、もう一つ驚いた。
ジュリアは、日本語がペラペラだった。
会話の中で、ジュリアから聞かれた。
「あなたは、何ができますか?」
僕は答えた。
「蕎麦が打てます」
すべては、その短いやり取りから動き始めた。
ワークショップだけでは足りなかった
当時、フランスはまだロックダウンの中にあった。それでも、日本からフランスへ入ることはできた。
ジュリアから聞かれた。
「入れるのに、なぜフランスへ来ないのですか?」
僕は、フランスへ行きたくなかったわけではない。むしろ、行きたかった。
けれど、僕の夢は蕎麦打ちを教えることだけではなかった。
東京・亀戸で、夫婦二人で営んできた小さな店の料理。自分で想像し、自分で形にしてきた料理。それを作品として世界へ出すことが、僕の夢だった。
その夢を、フランスに助けてもらいたいと思っていた。
だから、一度ワークショップをするだけでは、フランスへ渡る理由として少し足りなかった。
僕は、そこで足踏みをした。
「これで、どうですか?」
それからも、ジュリアとは何度かオンライン会議を重ねた。
ある日、ジュリアから、すぐにオンラインで話したいと連絡が来た。
フランスのロックダウンが解除される。そして、マルセイユでJapan Expo Sudが開催される。
止まっていた時間が、急に動き始めた。
ジュリアの提案は、一つではなかった。
Japan Expo Sudでのワークショップ。
Japan Expo Sudのステージ。
マルセイユのレストランで料理を出す仕事。
Sakura Bentoでの蕎麦打ちワークショップ。
そしてジュリアは、僕に言った。
「これで、どうですか?」
蕎麦を教える場所。大勢の人へ技術を見せる場所。そして、自分で考えた料理を、一人の料理人として出せる場所。
僕がフランスへ渡る理由は、揃った。
もちろん、答えは「行く」だった。
けれど、僕からも一つだけ、絶対に譲れない条件を出した。
「護摩蕎麦をやらせてほしい。それをやらせてもらえるなら、フランスへ行く」
護摩蕎麦は、日本の古典的な蕎麦料理ではない。
大豆の呉と黒胡麻を、鰹、昆布、干し椎茸の出汁でのばし、鉄鍋の中で十割蕎麦と合わせる。
僕が考え、亀戸の小さな店で育ててきた、僕自身の作品だった。
フランスへ行って、すでに日本にあるものを紹介するだけではない。
自分が想像し、生み出した料理を世界へ出したかった。
ジュリアは、その願いに応えてくれた。
見たことのない料理を信じた人
ジュリアは、護摩蕎麦を見たことがなかった。もちろん、食べたこともない。
僕と直接会ったこともなく、僕がどのように蕎麦を打つのかも知らない。
蕎麦打ちの台も、棒も、鉢も見たことがなかった。
それでもジュリアは、レストランのオーナーと交渉し、僕が厨房に立つ約束を取りつけた。
会場を作り、手伝ってくれる人を集め、料理を食べてくれるお客様までつないでくれた。
一年目の僕には、その仕事の全体が見えていなかった。
僕に見えていたのは、料理をする当日の厨房だけだった。
現場には人が足りない。誰が何をするのか分からない。
僕は料理を完成させなければならない。頭にきた。怒った。
それも、そのときの僕の本当の気持ちだった。
けれど、時間が経って分かった。
その一日を作るために、ジュリアがどれだけの人に連絡し、説明し、交渉し、頭を下げ、話をつないでいたのか。
僕は、自分の料理を完成させることで精いっぱいだった。
ジュリアは、その料理を作る場所と、手伝う人と、食べてくれる人まで用意していた。
二年、三年と時間が経って、僕はようやく、その仕事の大きさに気づいた。
小さなジャンヌ・ダルク
2023年、ジュリアと初めて直接会ったのは、マルセイユ・サン=シャルル駅だった。
オンラインでは何度も話してきたけれど、実際に会ったジュリアは、とても小さかった。
けれど、その小さな身体で、何人もの人を動かし、僕たちの活動を前へ進めていった。
決断する。
交渉する。
責任を引き受ける。
問題が起きれば、その真ん中に立つ。
そして、次の道を切り開く。
僕には、ジュリアがマルセイユの小さなジャンヌ・ダルクに見える。
戦うという意味ではない。
誰も形を知らない仕事を信じ、自分が先頭に立ち、人々を一つの方向へ動かす。
その勇気と仕事の強さを、僕はそう呼びたい。
成功者とは、名前が知られた人でも、お金を得た人でもないと思う。
まだ誰も見ていない可能性を信じ、それが形になるまで人と人をつなぎ、責任を引き受けられる人。
ジュリアは、僕にとって、そういう成功者である。
そして僕は、ジュリアの仕事から、女性が仕事の中心に立つことの格好よさと強さを教えてもらった。
神社は、あった
駅でジュリアと合流し、そのままSakura Bentoへ向かった。
店の敷居をまたぎ、奥まで進むと、中庭があった。
そこに、鳥居があった。
「これだ!」
僕は、悲鳴のような声を上げた。
周りにいたみんなは、何のことか分からない。
けれど、僕には分かっていた。
「これだ。僕がInstagramで見たのは、これだ」
それは神社の建物ではなかった。
Sakura Bentoの中庭にある、ミカちゃんが手作りした絵馬掛けだった。
あの画像を見なければ、ジュリアにDMを送ることもなかった。
ジュリアと出会わなければ、フランスで護摩蕎麦を作ることもなかった。
神社は、あった。
建物としてではなく、僕のフランスへの道を開いた、小さくて温かい入口として、そこにあった。
絵馬は、初めからたくさんあったわけではない。
僕が日本から送ったものがある。
自分で持っていったものもある。
ジュリアが日本へ来たとき、自分で持ち帰ったものもある。
2026年7月には、赤坂・猿田彦神社の絵馬を送った。
だから、高野定義にとって、マルセイユのあの場所は「神社のような場所」ではない。
本当に神社なのである。
ミカちゃんの仕事
蕎麦を打つための台と棒を作ってくれたのは、ジュリアの夫、ミカちゃんだった。
ミカちゃんは、フランスで働く大工さんだ。
見たこともない日本の蕎麦打ち道具を、僕のために手作りしてくれた。
ミカちゃんが作った蕎麦台は、今もSakura Bentoで大切に保管されている。
僕がフランスへ行くたびに、その台で蕎麦を打つ。
毎年使い、出張先へ行くときにも一緒に連れていく。
僕はフランス語ができない。
だけど、分かる。
ミカちゃんが作った蕎麦台は、角が丸い。
頼まれた寸法どおりに木を切っただけではない。
使う人の手を思い、運ぶ人を思い、長く使う未来を思って、角を丸くしてくれた。
人の仕事には、その人の心が残る。
ミカちゃんとは毎年会う。
そしてミカちゃんは、毎年、同じことを聞く。
「この台は、大丈夫か?」
僕も毎年、同じように答える。
「最高だ」
それだけでいい。
僕たちには、それで十分伝わっている。
ミカちゃんは、なんか、天才だ。
何でもできてしまう。
けれど、本当にすごいのは、できることを自慢するのではなく、誰かのために黙って使うところだと思う。
ディジョンまで、夢を運んでくれた人
ミカちゃんが支えてくれたのは、蕎麦台だけではない。
ディジョンへ向かう長い高速道路を、ミカちゃんが運転してくれた。
蕎麦打ちの道具も、重い荷物も、車に積んで運んでくれた。
僕がフランスで蕎麦を打つためには、粉と水と技術だけでは足りない。
道具を運び、人を運び、次の町まで連れていってくれる人が必要だった。
高速道路の写真に写っているのは、ただの移動風景ではない。
あの道の先まで、ミカちゃんが僕たちのフランス活動を運んでくれた記録だ。
ミカちゃんは「蕎麦台を作った人」だけではない。
僕の料理と荷物、そして夢を、実際に運んでくれた人だ。
オスギが、僕の隣にいる意味
僕は一人でフランスへ来たのではない。
いつも僕の隣には、オスギがいる。
蕎麦を打つ僕のそばで、言葉をつなぎ、人をつなぎ、現場の空気を受け止める。
Japan Expo Sudの舞台でも、僕の言葉を手に持ち、僕とフランスの人たちの間に立ってくれた。
僕が料理だけを見て前へ進めるのは、オスギが周りの人と心をつないでくれているからだ。
夫婦二人で営む亀戸の小さな店。
その形は、フランスへ来ても変わらなかった。
僕のフランス活動は、高野定義一人の挑戦ではない。
最初から、僕たち夫婦の仕事だった。
ジュリアがフランス側から道を開き、オスギが僕の隣で人と人をつないだ。
立場も国も違う二人の女性が、それぞれの場所で仕事の中心に立ち、周りへ光を渡してくれた。
僕は、オスギのことを「アメノウズメ」と呼んでいる。
天岩戸によって世界が真っ暗になり、皆が沈んでいたとき、一人で踊り、笑いを起こし、光を取り戻すきっかけを作った日本の神様。
暗いときに、自分が光になる。
僕にとって、最高の女性だ。
その名は、アメミ
2026年、ジュリアとミカちゃんに、新しい命が授かった。
ある日、ジュリアとカフェで話していた。
「男の子の名前は決めています。でも、女の子の名前はまだ決まっていません。高野さん、何かありませんか?」
僕は、オスギとアメノウズメの話をした。
そして2026年、女の子が生まれた。
ジュリアは、その子に「アメミ」と名づけた。
どうやら、あの日に話したアメノウズメから取ったらしい。
本当に、つけちゃった。
嬉しいような、困ったような。
どう受け止めればいいのか分からないほど、不思議で、ありがたい。
僕はまだ、アメミに会っていない。
いつか会える日が来たら、伝えたい。
あなたの名前が生まれた場所には、暗闇の中でも踊り、笑いと光を取り戻した、日本の女性の神様がいるんだよ、と。
一枚の鳥居から始まった僕たちの物語に、光を呼ぶ女の子が生まれた。
その名は、アメミ。
まだ会ったことのない、僕たちの新しい家族だ。
ENSEMBLE――共に
2026年、フランスへ出発する前、僕は手の甲に書いた。
「12日 アンサンブル」
忘れてはいけない日付と、忘れてはいけない言葉だった。
ensemble――共に。
それは、きれいな標語ではない。
ジュリアが舞台を作る。
ミカちゃんが道具を作り、荷物と人を運ぶ。
オスギが言葉と心をつなぐ。
僕が蕎麦を打ち、料理を作る。
誰か一人が欠けても、この仕事は成立しない。
一人の成功ではなく、互いの仕事を尊重し、それぞれの力を持ち寄って、一つの仕事を完成させる。
その姿を表す言葉が、ensembleだった。
成功者とは
僕はフランスで、成功者の意味を考えるようになった。
成功者とは、有名になった人ではない。
お金をたくさん持っている人でもない。
誰かの可能性を信じられる人。
見えないところで交渉を重ねられる人。
自分の技術で、必要なものを作れる人。
重い荷物と一緒に、誰かの夢まで運べる人。
言葉や国の違いを越えて、人と人をつなげられる人。
他人の成功を、自分の仕事として支えられる人。
僕にとって、ジュリアも、ミカちゃんも、オスギも、そういう成功者だ。
僕が舞台に立ち、蕎麦を打っている写真だけを見れば、主役は僕に見えるかもしれない。
けれど、本当の主役は、写真の外側にもいる。
舞台を作った人。
道具を作った人。
運んだ人。
言葉をつないだ人。
笑顔で迎えてくれた人。
その全員がいて、初めて僕は蕎麦を打つことができた。
心から、ありがとう
ジュリア。
会ったこともなかった僕に返事をくれて、まだ見たこともない護摩蕎麦を信じ、料理人として立つ場所を作ってくれて、本当にありがとう。
あなたが何年も続けてきた交渉と、人をつなぐ仕事の大きさを、僕は時間が経ってから、ようやく理解した。
ミカちゃん。
蕎麦台と棒を手作りし、毎年その台を気にかけ、重い荷物と僕たちをディジョンまで運んでくれて、本当にありがとう。
あなたが丸く仕上げた蕎麦台の角には、あなたの仕事と心が残っている。
オスギ。
亀戸の店でも、フランスでも、いつも僕の隣に立ち、僕が料理だけを見ていられるように、人と人の間をつないでくれて、本当にありがとう。
僕のフランス活動は、あなたと二人で作った仕事です。
一枚の鳥居から始まった縁は、護摩蕎麦、Japan Expo Sud、手作りの蕎麦台、ディジョンへ続く道、そしてアメミという新しい命へつながった。
来年、僕たちがどこで、どのような仕事をするのかは、まだ分からない。
けれど、一つだけ分かっている。
僕は一人では行かない。
これからも、互いの仕事を尊重し、同じ方向を向き、共に作る。
ENSEMBLE――共に。
それが、僕たちの合言葉である。










